ジーコが「日本人のようだ」と評した「黄金の中盤」の元鹿島監督 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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「彼の冷静さはまるで日本人のようだ」と、ジーコも彼についてそう言っていた。

 トニーニョ・セレーゾは18歳の時にはアトレティコ・ミネイロでデビューした。しかし選手になる前の幼少期の生活はかなり厳しいものだった。

 彼の父親がサーカスのピエロだったことを知る人間は数少ない。父アントニオ・セレーゾは1950年代に「モレーザ(ポルトガル語でソフト。なまけものの意味もある)」という芸名で、とあるサーカスのピエロをしていた。だが、なかなか売れず、家は貧しかった。

 トニーニョ・セレーゾの本名は父にちなんで、アントニオ・カルロス・セレーゾ、小さなアントニオなので、トニーニョと呼ばれた。彼もまた8歳の時に、父と一緒にピエロとしてデビューをする。芸名は「ドゥレザ(ハード)」。弱い父に強い息子というキャラの親子ピエロだった。

 しかしコンビを組んだ少し後に父は亡くなってしまい、貧しかった家は、より貧しくなった。セレーゾの母ヘレナは、ハンガリー生まれのブラジル育ちで、彼女もまたサーカスで働いていていた。セレーゾは12歳までサーカスでピエロを続けたが、その後、「サッカーがサーカスでの人生を奪ってしまった」とセレーゾは後に笑いながら語っている。

 1974年、トニーニョ・セレーゾはアマゾンのど真ん中、マナウスのナシオナルに1年間レンタルされた。マナウスは州リーグの中でも一番弱い地域といわれているが、最もフィジカルでハードなサッカーをするリーグでもある。

「ここでどのようにボールを守るかを私は学んだ」

 トニーニョ・セレーゾは当時を振り返りそう述べている。実際、翌年レンタルから戻って来た彼は、すぐにアトレティコ・ミネイロの中心選手となった。いや、クラブチームだけではない。クラブでレギュラーになって1年目という記録的なスピードで、ブラジル代表にも招集されるようになった。

 代表としては二度のW杯でプレーし、そのどちらも優勝まであと一歩のところまで行った。

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