中村憲剛、震災と向き合った10年。「もう、支援ではないのかもしれない」 (4ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • photo by (C)KAWASAKI FRONTALE

 関係性は、決して一方通行ではなかった。

 自分たちが赴くだけでなく、陸前高田の子どもたちを招いて、ホームゲームを観戦してもらった。2015年には陸前高田市とクラブが友好協定(高田フロンターレスマイルシップ)を結ぶと、現地の方々がフロンターレのホームゲームで物産を販売する「陸前高田ランド」、翌2016年には現地にて「高田スマイルフェス2016」を開催。

 ほかには、クラブハウスで中村をはじめ選手たちが水をあげた苗が、サポーターの手によって陸前高田の地に植え替えられた。『ふろん田』と名付けられたその田んぼで収穫された米は、『青椿(あおつばき)』という名の日本酒として販売されるなど、クラブと町の交流は続いている。

「今日までの関係性を語るうえで外せないのは、クラブと陸前高田市が友好協定を結んだことですよね。翌年、津波で瓦礫があった場所に作られた芝生のグラウンドで、3000人もの人が集まるイベントが開催できたことは、自分としてもうれしかった。あとは毎年、毎年、子どもたちの成長が見られることも、自分のなかでは楽しみでした。

 本当に徐々に、徐々にですけど、回復していく町並みと子どもたちの成長、それを見られたことが幸せでした。本来、僕らが元気や勇気、力を与えにいく側なんですけど、結局、毎回、僕らが力をもらって帰っていましたからね」

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 Jリーグの百年構想のひとつに「地域密着」がある。川崎フロンターレは川崎市をホームタウンとするクラブではあるが、陸前高田との歩みに、クラブと地域のあるべき姿を見た気がした。そう伝えると、中村も深くうなずいた。

「きっと発想としては一緒ですよね。フロンターレは川崎市のチームですけど、陸前高田でも同じように活動していく。でも、きっと、そこには人であり、熱量であり、思いやりがなければ、こうはならなかったと思うんです。逆に、それがあれば、ホームタウンではなくても、人と人はつながっていくことができる。

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