中村憲剛、震災と向き合った10年。「もう、支援ではないのかもしれない」 (2ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • photo by (C)KAWASAKI FRONTALE

 中村と陸前高田の関係は、『算数ドリル』から始まった。震災ですべての教材が流されてしまったことから、陸前高田市の小学校で教諭をする濱口智先生が、各方面に「教材を届けてほしい」と連絡していたところ、クラブのプロモーション部で働く天野春果(現・タウンコミュニケーション部長)とつながった。

 クラブは2009年から市内の小学校に向けて『算数ドリル』を製作・配布していたこともあり、天野は800冊を送ることを決断。表紙になっていた中村に、800冊すべてにサインを書いてほしいとお願いしたのである。中村も天野の申し出を快く引き受けると、即日でサインを書き上げた。

「震災のあと、自分としても何かをしたい、力になりたいという気持ちは強かったんです。だから、天野さんから連絡をもらった時も、『自分にできることがあるなら』と、家まで算数ドリルを持ってきてもらったんです。自分がサインを書くことで、子どもたちが少しでも笑顔になってくれるならば、という思いで一心不乱に書きました」

 それがきっかけとなり、震災から半年が経った2011年9月、中村は初めて陸前高田へ足を運んだ。川崎フロンターレのすべての選手たちが参加して、サッカー教室を開催したのである。

「算数ドリルにサインを書いたり、クラブとしては『Mind-1ニッポンプロジェクト』として、いろいろと取り組んでいたりしましたけど、個人的には、自分たちがやっていることは、果たしてみなさんの助けになっているんだろうかと考えていたんです。

 だから、陸前高田に初めて向かう時も、僕らが現地に行って何ができるのか、そもそも行っていいのか......自分の存在意義について、疑問を感じているところがずっとありました」

 向かう車中では、そうした思いを抱いていたという。バスが山道を抜け、被災した陸前高田の町に入ると、その思いはより一層増した。

「今でも覚えていますけど、現地について濱口先生が当時の映像を見せてくれました。その時に、地元の人たちの声を涙ぐみながら話されているのを聞いて、それぞれが震災というものを目の当たりにしたんです。

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