J以前に来日したブラジルの英雄。「ジーコは美味しいとこ食ったな」 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 話はオスカーが日本に行って、加茂監督と知り合ったことから始まる。オスカーはそのいきさつをこう教えてくれた。

「『日産でプレーしてくれるような若いブラジル人選手はいないか』と、加茂監督は私に聞いてきた。中盤としてもアタッカーとしてもプレーでき、将来性があり、真面目な選手というのが彼の要望だった。

 私の頭にすぐに浮かんだのは、サンパウロでチームメイトだったワグナー・ロペスだった。私は直接、彼に連絡を取り、『日本に来ないか』と誘った。彼はまだすごく若く、たぶん18歳ぐらいだったと思う。陽気でオープンな性格の彼は、すぐにこのオファーを受けてくれた。こうして日本にとっても重要な選手のキャリアがスタートしたのだ。

 私のこの判断が、ロペスの、そして日産の将来を助けたことを嬉しく思う。ロペスはチームに多くの貢献をしてくれた。たぶん彼はジーコの次に、日本にとって重要な存在となったブラジル人選手ではないだろうか。ロペスは自分だけでなく、多くの若手選手の成長にも手を貸してくれた。それを見て、私はいつも、あの最初にかけた1本の電話を思い出すのだ」

 1991年に日本での監督業を終えた後、彼のもとに大きなオファーがもたらされる。当時ブラジルの最も優れた監督とされていたテレ・サンターナから、直々に、サンパウロで自分のサブコーチを務めてくれと言われたのだ。

 オスカーはその後も国際的な活躍を続け、ブラジルとアラブ首長国連邦のチームを率いた。なかでもアル・ヒラルの監督時代は勝ちとれるすべてのタイトルを手に入れている。おかげでアジアでは、オスカーは偉大な選手としてだけでなく、監督としても有名になった。

 1995年には京都パープルサンガを率いるために再び日本に来て、1年半の間、チームを率いた。

 現在、オスカーは66歳、2013年に自らが創立したブラジルFCの会長を務めている。サンパウロ州で最下位のリーグに属するチームだが、新たな才能の発掘と育成を目的としている。17歳以下の有望な少年を約50人全国から集め、息子とともに彼らにサッカーを教え、日に4回の食事と寮、医療を提供している。

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