佐藤寿人、挫折と屈辱もあった21年。「正直、ひどい監督だと思った」 (4ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 降格した試合の直後に、佐藤は地元のメディアに対してチームに残ることを明言している。レンタルから完全移籍に移行して臨んだ2004年は、J2とはいえ20ゴールと結果を出した。しかし、チーム自体は昇格争いに絡むことができず、翌年に佐藤はサンフレッチェ広島へ移籍した。

「仙台をJ1に戻せないまま、移籍してしまったのは心残りではありますね。仙台の人たちは本当に優しかったですし、あのスタジアムの雰囲気も特別なもの。結局、2年しかいられなかったですけど、今でも思い出に残っていますし、離れてからも好きな街のひとつですね」

 翌年に広島に移籍した佐藤は、J1の舞台で日本人トップとなる18ゴールをマーク。ベストイレブンにも輝き、ジーコ監督率いる日本代表にも選出された。

 日本屈指のストライカーにまで成長を遂げた佐藤は、ここからキャリアを飛躍させていくはずだった。しかし2007年、またしても佐藤の胸には大きな傷が刻まれた。

「優勝する想いで広島に行って、2005年にいい結果を出して、2006年は序盤につまずいたんですが、シーズン途中にペトロヴィッチ監督が来てくれて、すごくいいサッカーができているという手応えがありました。当初は、残留できるかという順位から10位でシーズンを終えて、右肩上がりで2007年に入ったんです」

 開幕戦でも佐藤とウェズレイの2トップがともに2点ずつを上げてFC東京を撃破し、最高のスタートを切っている。

「シーズン序盤は、ウェズレイとふたりで得点王争いできるねっていう話をしてたんですよ」

 ところがそんないい状態も束の間、佐藤とウェズレイの2トップに対するマークが厳しくなると、結果を出せなくなっていく。攻撃的なスタイルを標榜するがゆえに、守備の崩壊も招き、次第に広島の順位は下がっていった。

 それでも「危機感はなかったですね」と佐藤は振り返る。

「優勝争いできるだろうと思っていたので。結果が出ないなかでも、ひとつ勝てば大丈夫だろうという自信がなぜかありました。でも、終盤になるにつれ、残留争いのプレッシャーにさらされて、ライバルとの直接対決にも勝てなくなったんです」

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