佐藤寿人、挫折と屈辱もあった21年。「正直、ひどい監督だと思った」 (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

「えっ、ジェフよりFW多いじゃんって(笑)。でも、一度行くと決めた以上は、今さら行きませんとは言えなくて。さらにそのタイミングで、ジェフの監督だった(ズデンコ・)ベルデニックが名古屋に引き抜かれたんですよ。

 監督が代わったので、ジェフに残れば試合に出られるかもしれない。実際にジェフからも、残れと言われました。でもなぜか、あの時の僕は頑固だったんですね。一回決めたことを撤回することはできなかった。そう考えると、あの移籍は自身のキャリアのターニングポイントになったと思います」

「J2で経験を積んで、ジェフに戻る」。佐藤の思い描いていたプランは、土台から揺らごうとしていた。「J2でも試合に出られないかもしれない」。実際に佐藤はその年、ほとんど試合に出ることができなかった。残した成績は13試合2得点。FWではなく、ウイングバックとして起用される屈辱も味わった。

「今でも忘れないですよ。首位の大分相手に0−3で負けている状況で、残り15分くらいに西村さんに呼ばれて。当然、FWで出ると思っていたんですが、なぜか左ウイングバックだった(笑)。練習でもやったことないのに、何を求めているのかなと。ソツなくこなしたんですけど、次の日のミーティングで『途中から入った選手がこんな消極的なプレーじゃ話にならない』と、名指しで批判されたんです」

 佐藤からすれば、解せない話である。

「正直、ひどい監督だと思いましたよ(笑)。練習でもやったことのないのに、できるはずがないじゃないですか」

 でも、その想いは、キャリアを積み重ねていくなかで、変化していくことになる。

「あの状況で何ができたんだろう、と考えるようになりました。左ウイングバックであっても、チームを活性化させることはできたはず。あの時、僕はミスをしたくないから無難にこなしましたけど、0−3で負けている状況であれば、リスクを負って中に入るとか、ボールを呼び込むとか、もっとほかにできることがあったんじゃないかって。

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