柿谷曜一朗や齋藤学は蘇るか。J史に残る移籍で復活した名選手ベスト3

  • 浅田真樹●文 text by Asada Masaki
  • 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio

 ところが、翌2013年に川崎フロンターレに移籍すると、突然の大復活。ショートパス主体のチャンスメイクに長けた川崎にあって、大久保はフィニッシャーとして仕事を得ると、まさに水を得た魚のごとく自己最多の26ゴールを記録し、得点王まで手にしてしまったのである。

 以後、大久保はJリーグ史上初となる3年連続得点王に輝いたばかりか、再び日本代表にも選出され、2014年ワールドカップに出場している。

 また、同じ川崎への移籍組では、家長昭博の復活も著しい。

 ガンバ大阪のアカデミーで育った家長は、若くしてその才能を高く評価され、18歳にしてJ1デビュー。順調に活躍の場を増やすとともに、イビツァ・オシム監督時代の日本代表にも、次代を担う有望株として選出されていた。

 しかし、その後は海外クラブも含めて移籍を繰り返すなかで、プレー機会が減少。天才と称されたレフティーも、徐々に目立たない存在になっていた。

 そんな家長も2017年に川崎へ移籍するや、高い技術を生かしてパスサッカーに適応。昨季までの4シーズンで3度の優勝を果たしたばかりか、自身も2018年にはMVPに選ばれている。

 2014年に大宮アルディージャへ移籍したことをきっかけに、すでに復活の兆しは見えていたとはいえ、それを確かなものとしたのは、川崎への移籍だったに違いない。

 さらにJリーグの歴史をさかのぼれば、移籍による復活で印象深いのは柳沢敦だ。

 柳沢は1996年に鹿島アントラーズ入りして以降、長らく常勝軍団の2トップを支えてきた。チャンスメイクを得意とするタイプだけに、決してゴール数は多くなかったが、前線に不可欠な選手だったと言っていい。2000年シドニー五輪や2002年ワールドカップでも活躍し、まさにJリーグを代表するFWのひとりだった。

 しかし、2003~2005年のセリエAへの挑戦を経て、鹿島に復帰したあとは次第に出場機会が減少。2007年は19試合出場で5ゴールを記録するにとどまった。

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