和製ロナウド、小野伸二2世...。消えていった天才Jリーガーたち【2020人気記事】 (3ページ目)

  • 原山裕平●文 text by Harayama Yuhei
  • photo by Nikkan sports/AFLO

 世代別代表にも選出され、2000年にはAFC U-17選手権で得点王を獲得。翌年にU−17世界選手権にも出場し、高校3年時には特別指定選手として横浜FMでJリーグデビューを果たす。

 しかし、正式にプロとなった2003年、厳しい現実が待っていた。岡田武史監督のもとで黄金期を迎えた横浜FMでは選手層の厚さに阻まれ、チャンスを掴むことができなかった。

 その後移籍したモンテディオ山形や、徳島ヴォルティスではまずまずの活躍を見せ、ガイナーレ鳥取時代には、JFLからJ2への昇格に貢献している。そして2011年にJ2でプレーしたのを最後に、スパイクを脱ぐ決断を下した。

 ユース出身選手では、サンフレッチェ広島ユースの前田俊介の存在を忘れてはならない。

 前田が高校3年生だった2004年、広島ユースはクラブユース選手権と高円宮杯全日本ユースの2冠を達成。当時最強を誇ったチームにおいて、背番号10を背負う前田の存在は別格だった。

 曲芸のようなドリブルで相手を翻弄し、強烈な左足からゴールを量産。優勝を成し遂げたふたつの大会では、ともに得点王に輝いている。

 同年には2種登録選手としてJリーグデビューを果たし、ジュビロ磐田戦で初ゴールも決めた。前田は本田圭佑らと同じ1986年生まれ。紛れもなく、世代のトップランナーだった。

 翌年にトップ昇格を果たした前田は、1年目から26試合に出場して5得点。同年に行なわれたU−20ワールドカップにも出場し、ゴールも記録している。しかし、さらなる飛躍が期待された2006年、小野剛監督が成績不振で退任してミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任すると、一気に出場機会を減らした。

 佐藤寿人とウェズレイという強力なライバルの存在もあったが、組織的なプレーを求めるペトロヴィッチ監督のサッカーに、前田の独創的なスタイルはフィットしなかったのだ。結局、未来のエースとして期待された逸材の才能は、広島で開花することはなかった。

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