内田篤人のラストゲームで見た切ない場面。限界までやり切り有終の美 (4ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • 木鋪虎雄●撮影 photo by Kishiku Torao

 だが、線が細く、肉体的には恵まれているとは言い難い内田が、もしスピードと突破力だけを武器に上を目指していたら、今の彼はなかったに違いない。

 その後、内田は清水東高在学中に右サイドバックへ転向。縦に上下動を繰り返す槍のようなサイドバックがまだまだ主流だった時代に、従来の特長は残しつつも、ボランチのごとくパスを出し入れしながら攻撃に加わっていくスタイルを確立し、自らの希少性と重要度を高めていった。

 2007年U-20ワールドカップに出場し、初めて世界の舞台に立つと、翌2008年1月にはA代表デビュー。同年、北京五輪にも出場し、その後はA代表の主力となり、ワールドカップやアジア予選など、主要な国際試合を数多く経験してきた。

 国際Aマッチ出場は74試合。しかし、キャリアのスタートが早かったことを考えると、ケガさえなければ、その数はきっと3桁に届いていたはずである。

 まして、若さゆえの勢いや身体能力に頼っていた選手ではない。経験を重ね、ベテランと呼ばれる年齢になってもなお、熟練の技に磨きがかかるプレースタイルだっただけに、一層、右ヒザのケガが引退を早めたことが惜しまれる。

 しかしながら、昌子の言葉を借りれば、「大きな決断をしたなかで、本人が一番いろんな思いがある。周りが何か言うことではない」。

 自身が納得し、下した決断なら、それでいい。今はただ、労いの拍手を送りたい。

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