【THIS IS MY CLUB】中村憲剛はタイトルが獲れない原因は「自分だな」と思っていた (2ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

――では、いちばん苦しかった出来事と聞かれて思い起こすのは?

「やっぱり2位になりすぎたことですかね。加入4年目の2006年に、J1昇格2年目にして初めて優勝争いをした時には、自分たちとしても勢いを感じていたというか、怖いもの知らずのところがありました。『次はもう、タイトルが獲れるでしょう』という思いは少なからずありましたから。それがまさか、こんなにも2位や準優勝がつづくとは......。

 17年元日の天皇杯決勝での敗戦もそうですし、その年のルヴァンカップ決勝で負けた時の落胆も大きかった。風間(八宏)さんが監督になって、約5年の月日をかけてチームをつくってきても、タイトルに手が届かなかった。それをオニさん(鬼木達)が引き継いで積み重ねてきても、獲れなかった。タイトルの重さをつくづく感じたんです。その1カ月後に、初めてのリーグ優勝を達成したので、すべてが吹き飛んでしまっていますけど、おそらくあそこでタイトルを逃していたら、いちばんしんどかったんじゃないかと思います。

 だから、(17年にJ1で)優勝する前までで言えば、その直前がいちばん苦しかった。個人的には、何度も、何度も、自問自答しましたし、葛藤もしました。もう、タイトルが獲れない原因は、『自分だな』って思っていましたから。だって、そのすべてを経験しているのは、自分以外にいないですからね。まるで2位の象徴みたいな......。だからこそ、初めて優勝した時には、あれだけ大泣きしたんだと思います」

――そうすると、いちばんうれしかった出来事は、やはり優勝になりますか?

「それ以外にはないですよね(笑)。どうやったら勝てるかを追求しながら1年間を戦い抜いた結果、勝つための道を知ることができたのが大きかった。僕はそれまで優勝した経験がなかったから、何をどうすればいいのか、何を変えればいいのかを自問自答しながら過ごす年末を送っていたんです。

 でも、勝ったことで、タイトルを獲るための拠りどころというか、成功体験がクラブに残った。自分たちをさらに突き詰めていって、みんながこれくらいやれば、もしくはこれくらいやらないと獲れないというのを知ることができたのは、本当に大きかったと思います」

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