横浜フリューゲルスの天皇杯優勝。不安と悲しみの中で戦い抜いた奇跡

  • 渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

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第10回:1999年の横浜フリューゲルス

 横浜フリューゲルス消滅とは何だったのか。筆者が取材・構成に深く関わった「横浜フリューゲルス消滅の軌跡」(山口素弘)から、当時、山口選手が語った言葉を紹介しながら綴りたい。

 1998年10月28日。トルシエジャパンの初陣となるエジプト戦が、長居スタジアムで行なわれた。しかし、試合前から、新聞記者たちは代表戦とは関係のない情報の確認のために動いていた。

 日本代表がエジプトに1-0で勝利を収めたあとの深夜、「横浜フリューゲルス、横浜マリノスに吸収合併」というニュースが飛び込んできた。翌日のスポーツ紙の一面は、すべてその話題で占められていた。そこから、横浜フリューゲルスの最後の戦いが始まった。

天皇杯のカップを高々と掲げる山口素弘(横浜フリューゲルス)天皇杯のカップを高々と掲げる山口素弘(横浜フリューゲルス) 吸収合併のニュースが流れたとはいえ、合併調印までは約1カ月あった。それまでに白紙撤回ということにはならないだろうか。サポーターはJリーグに嘆願書を提出。試合会場でも署名活動を行なった。試合出場どころか、ベンチにも入れない若手選手が自発的に寮から最寄りのJR鴨居駅前で署名を集め始め、主力選手やチームスタッフも横浜駅前で署名活動を行なった。

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