元鹿島のジョルジーニョはいま、430人の貧しい子供を育てている (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 2005年には、選手のキャリアをスタートしたのと同じアメリカRJで監督を始める。温厚な性格のおかげで、どこにでも友人がいたため、彼にはさまざまな声がかかった。ブラジル代表のアシスタントコーチもそのひとつ。5年間にわたり、ドゥンガの右腕となって代表に尽くしたあとは、いろいろなチームで経験を積み、2012年には、鹿島アントラーズの監督として日本に舞い戻っている。

 1年半、鹿島を率いたあと、彼はまたブラジルへと戻ったが、それは日本での成績が悪かったからではない、ブラジルのビッグクラブ、フラメンゴが彼を招聘したからだ。ブラジル人監督ならば誰もが憧れるポストである。その後もポンチ・プレッタ、アラブ首長国連邦のアル・ワスル、ヴァスコ・ダ・ガマなどで監督を務め、昨シーズンにはコリチーバを率いていた。

 監督としてのジョルジーニョは、選手としての彼ほどは成功していないと言っていいだろう。2012年、鹿島アントラーズでナビスコカップに優勝し、2016年にヴァスコ・ダ・ガマでカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)優勝を勝ち取ったのが目立つ程度だ。

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