14年前に全国V。野洲高の10番はなぜプロ入りしなかったのか (3ページ目)

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

 幼稚園でサッカーを始めると、楽しさにのめりこみ、小学生時代にリフティングを1万回できるようになった。誰よりもたくさんボールに触り、家の中でもボールを蹴っていた。その甲斐あって仲間内ではダントツにうまく、「同学年の中では、負ける気がしなかった」という。

 小学6年生の時は平原と楠神が関西トレセンの上位30人に残り、平原だけがナショナルトレセンに選ばれた。中学生のセゾンFCの時は、楠神や青木、一学年下の乾など、のちにプロになる選手がいる中で、クラブでいちばんうまい選手がつける「背番号1」を背負うなど、誰もが認める存在だった。

 高校では背番号10を背負い、鮮やかなスルーパスを連発。中心選手として挑んだ選手権では、青木とのホットラインでゴールを次々にアシストした。

 平原は「僕は常に孝太を見ていました。やっぱり、あいつがいちばん点を取るんです。両サイドの順平や貴士がドリブルで突破できるので、僕はゴールに直結するパス、アシストのことだけを考えていました」と振り返る。

 選手権でもっとも印象に残った場面を尋ねると、小中高と12年間、指導を受けた岩谷篤人コーチ(当時のセゾンFC監督、野洲高コーチ)に褒められたプレーを挙げた。

「試合が終わったあとにみんなでビデオを観るんですけど、その時に岩谷さんが褒めてくれたプレーがあるんです。3回戦の高松商業戦で、僕が順平にワンタッチで出したパス。アウトサイドでバックスピン気味に蹴ったボールなんですけど、それを褒めてくれたのが印象に残っています。めったに褒めてくれないんで(笑)」

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