レノファ山口経由J1行き。個人昇格続出の「霜田塾」の実態 (2ページ目)

  • 鈴木智之●文 text by Suzuki Tomoyuki
  • photo by AFLO

 引退後はヴォルティス徳島(現・徳島ヴォルティス)や京都サンガのアカデミーで指導し、FC東京やジェフ千葉でヘッドコーチを務めたあと、日本サッカー協会の技術委員(のちに技術委員長)として、原博実氏とともにアルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ、ヴァイッド・ハリルホジッチの招聘を担った。

 選手と指導者としての仕事だけでなく、FC東京時代には強化担当として選手獲得に奔走。日本サッカー協会入局当初は、日本代表チームのマネージャーとして、遠征時のホテルや飛行機の手配、グラウンドの確保など、裏方の仕事も経験。さまざまな立場からサッカーに関わってきたことが、現在の"監督・霜田正浩"の礎になっている。

 若手選手を獲得し、成長させる手腕は、強化担当を務めたFC東京時代から発揮していた。01年当時のFC東京はJ2から昇格してきたばかりで、いまのようなビッグクラブの面影はなかった。当時は鹿島アントラーズとジュビロ磐田の2強時代。両者を倒すために、「現役の日本代表選手の獲得は難しいが、いずれスターになるであろう、年代別日本代表の選手を獲得して鍛えよう」と考え、選手の獲得、交渉に乗り出していった。

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