14年前、全国制覇を果たした野洲の
エースが高校で覚醒した理由

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

 中学時代は「恐怖に支配されながらサッカーをしていた」と語る青木。そんな中、楠神の存在が青木の支えになっていた。

「順平はほんまにすごいヤツで、僕らみんな監督にビビっていたのに、あいつだけ平気なんです。試合中も僕がボールを持っておどおどしていたら、『俺に出せ!』って感じで近寄ってきてくれて。当時は漫画の『スラムダンク』が好きでよく読んでいたのですが、順平を流川楓のように思っていました。ドリブルがめちゃくちゃうまくて、プレーに華がありましたし」

 青木は中学3年生のとき、静岡学園高校に行こうと考えていた。「静学に行って、Jリーガーになりたい」と思っていたのだ。しかし、中学3年時の最後の大会で、悔しい負けを経験をしたこと、翌年からセゾンFCの岩谷篤人監督が野洲高のコーチになり、中学時代のメンバーのほとんどが野洲に進学することを聞き、青木もそれならばと仲間と同じ道を歩むことに決めた。

「中学時代の監督――岩谷(篤人)さんは怖かったんですけど、この人の下で、このメンバーでサッカーをしていると、うまくなるのがわかるんです。ほかのチームと試合をしても、ニッチョや研、順平やタカシよりうまいやつはいないぞと。それを見て、自分の自信にもなるじゃないですか。高校に行ってもみんなでサッカーをしたほうが楽しいし、絶対に強くなると思いました」

 野洲高に入ると、青木は覚醒した。山本佳司監督(現・総監督)は選手に自由を与え、伸び伸びとプレーさせる方針だった。

「僕は高校に入って、一気に伸びたと思います。山本先生はほんまに優しかったんで、サッカーをするのがどんどん楽しくなっていったんです」

 中学時代、パスを受けることを怖がっていた青木は、いつしか「俺に出せ!」と強く主張するようになっていった。

 技術が高く、負けん気の強い集団だった野洲は、チームメイト全員がライバルという関係だった。紅白戦ではBチームの選手がAチームの選手に対して、削る勢いでタックルを仕掛ける。

「サブの選手に削られたら、ゴリ切れしてましたね。みんな、自分がいちばんうまいと思っていましたし、どこのチームと試合をしても、負ける気がしませんでした」

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