高校サッカー史に残る野洲の優勝。主将が語る現在の高校生との違い (2ページ目)

  • 鈴木智之●取材・文 text by Suzuki Tomoyuki
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

「野洲があまりにも弱くなっていたので、山本先生に会いに行ったんです。僕と(平原)研のふたりで」

 平原は野洲高で背番号10をつけ、金本とともにセクシーフットボールの中心を担っていた選手である。彼を知る誰もが「天才」と賞賛する逸材でありながら、近畿大学サッカー部を卒業後はプロには進まず、ビジネスを興していた。

「山本先生に、野洲が弱くなっているのはどういうことですか? と聞いたら、『お前らを教えていた頃から、10年が経っている。気力、体力的にも当時とは違うんや』と。それでも僕がいろいろ言うので、『よっしゃ、わかった。それなら、お前も当事者になれ』と言われました。僕も強く言った手前、断るわけにもいかず、『はい』と返事をして、野洲高のコーチをすることになりました」

 野洲高時代は監督とキャプテンの間柄として、個性あふれるメンバーを束ねていたふたりである。山本はキャプテンを信頼し、金本もまた「人を巻き込む力が凄いし、単純に男としてリスペクトしています」と、山本を尊敬していた。

 当時の金本は、滋賀県で不動産会社に勤務していた。時間をやりくりして、週に3、4回練習に顔を出す中で、対面したのは自分の高校時代とはまるで意識が違う選手たちだった。

「僕らの頃って、チーム内での競争が激しかったんです。紅白戦でも、チームメイトを削るぐらいの勢いがあったので、しょっちゅう喧嘩していました。パスが少しずれるだけでも走らないみたいな。その頃と比べると、今の子たちは情熱やハングリー精神が、むちゃくちゃ欠けています」

 グラウンドに入って高校生と一緒にボールを蹴ると、プレーへのこだわりに対して、愕然とすることもあったという。

「野洲のサッカーは相手の逆をとる、みんなで同じイメージを描くというのがベースとしてあるのですが、今の選手に『なんで今、右足にパス出したん?』と聞くと『いや、なんとなく...』という感じなんです。『俺の右足にボールをつけて、どんなプレーをしてほしかった?』と聞いても答えられない。これは時間がかかるなと思いましたね」

 会社勤めをしながら、指導にあてる時間を捻出していた金本だったが、よりコミットするために転職した。時間に融通の利く会社で働くことで、野洲高サッカー部に深く関わろうと腹をくくった。

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