鉄人・明神智和が引退を決断。プロ24年間「大事にしてきた言葉」とは (3ページ目)

  • 高村美砂●取材・文 text by Takamura Misa
  • photo by Kyodo News

「ワールドカップに出場したときは24歳でしたが、正直、自分のプレーのことで精一杯で、周りを見る余裕がなく、とにかくチームのために、自分の力を出すことだけを考えていました。日本で初めて開催されたワールドカップで、日本中が盛り上がっているのはテレビでも見ていましたが、あの1カ月のことは、正直あまり記憶にないんです。そのくらい興奮状態だったんだと思います。

 ただ、今になって振り返ると、自分の国でワールドカップが開催されて、その代表として日の丸がついたユニフォームを着てプレーできたのは、非常に名誉で、うれしいことだったし、すばらしい経験をさせてもらったと思っています」

 人生初めての移籍は2006年。柏でも、ともに仕事をした西野朗監督が率いるガンバに移籍をした。その前年度、J2降格となった柏とは対照的に、J1リーグ初優勝を飾ったガンバへ――。

 その重みを実感したのは、新シーズンを前に、同じタイミングで加入した加地亮や播戸竜二、マグノ・アウベスらとともに、当時の佐野泉代表取締役社長の部屋に呼ばれた時だ。

「今季は強化費に8億をかけた。キミたちにがんばってもらわなければ困る」

 それに対して、「クラブの思いに応えるためにも、金額以上の利益をもたらさなければいけない」と胸に誓った明神は、クラブを離れる2015年まで"ど真ん中"で戦い続け、AFCチャンピオンズリーグ制覇や天皇杯連覇、そして2014年の"三冠"と、数々のタイトル獲得に貢献した。

 当時、ホームスタジアムとして使用していた万博記念競技場のスタンドには、試合になると決まって『ここにも明神。あそこにも明神』というゲートフラッグが掲げられたもの。その言葉がどれだけ的を射ていたのかは、彼の隣でボランチを預かることも多かった、遠藤保仁(ガンバ大阪)の言葉からも伺い知れる。

「ミョウさんは、とにかく、縁の下の力もち。決して派手なプレーはしないけど、いてほしいと思ったら、やっぱりいて、危ないと思ったところにもいつもいた。試合中、同じピッチにいながら『ミョウさん、すげえ!』と思ったことは何度もある」

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