平成Jリーグを彩った外国人スターたち。「妖精」は超絶技巧を見せた (2ページ目)

  • 渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

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 名古屋といえば、Jリーグ創設当時から、潤沢な資金力を誇り、いずれ黄金時代を作るのではないかと思われていた。アーセン・ベンゲル元監督のもと、ストイコビッチを中心に魅力的なサッカーを披露した時期もあった。しかし、Jリーグ初優勝は、ストイコビッチが監督に就任して3年目の2010年まで待たなければならなかった。

 その後も成績は低迷を続け、2016年にはリーグ16位に沈み、J2降格を味わっている。補強の失敗だけではなく、監督の選び方にも疑問を感じることもあった。結局、オリジナル10のなかでも、結果という点では鹿島、浦和レッズといったクラブに大きく水をあけられてしまった。

 そんなチームの歴史で、7年間所属したストイコビッチは文字どおり"名古屋の顔"としてプレーしてきた。名古屋のサポーターだけではなく、ほかのチームのサポーターもそのプレーに酔いしれた。

 この天皇杯のゴールだけではない。1994年、NICOSシリーズのジェフ市原(現千葉)戦では、大雨でピッチのあちらこちらに水たまりができ、ボールが走らないなか、リフティングでボールを運ぶ妙技を見せた。

 また、監督としてチームを率いていた2009年の横浜F・マリノス戦では、相手GKのクリアしたボールを、革靴、スーツ姿のストイコビッチがダイレクトで蹴り返し、ボールは見事に横浜FMのゴールに吸い込まれていった。これは「判定への異議」「非紳士的行為」とみなされ退席処分になったが、スタンドが大きく沸いたのは言うまでもない。

 Jリーグにはかつて、鹿島のジーコ、ジョルジーニョ、レオナルド、市原のピエール・リトバルスキー、磐田のドゥンガ、ガンバ大阪のパトリック・エムボマなど、数多くの外国人スター選手がプレーしていた。どのスタジアムに行っても、世界のスーパースターを見ることができる。それが当たり前という時代があった。

 そんな選手たちと比べても、ストイコビッチは際立っていた。歴代外国人選手の中で、記憶に残る最高のプレイヤーだった。今でも、名古屋グランパスといえば、真っ先に名前が挙がるのは"ピクシー"の愛称で親しまれたストイコビッチだろう。

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