植田直通は「いつも難しいほうを選ぶ」だから鹿島入りを迷わなかった (5ページ目)

  • 寺野典子●文 text&photo by Terano Noriko

――試合に出たり、出なかったりというのは、メンタルを保つのも難しいでしょうね。

「鹿島時代には前日練習ではスタメン組だったのに、試合当日ベンチ外というのもありました。監督から何かを説明されることもなかった。当時はまだ、僕が幼かったのもありますけど、かなりイラついたこともありました。時にはそれが態度に出てしまったこともあった。そういう経験があって、自分のメンタルも強化されました」

――2015年のナビスコカップ優勝のときは、決勝でまさかのベンチ外でしたね。

「ガンバ大阪相手に3-0で勝ちましたけど、僕はスタンドで観戦していました。遠征メンバーにも選ばれて、突然のベンチ外でしたから、優勝しても嬉しくなかったです。逆にセレモニーのときにはちょっと気持ちが荒れました。ピッチに出てみんなで喜ばなくちゃいけないのに、喜べなくて。そしたら当時コーチだったヤナ(柳沢敦)さんに『今は我慢して、こういう場所に相応しくふるまえ。次タイトルを獲るときは、必ずピッチに立っていろ』と言われたんですが、その言葉が僕のなかに刺さったというか、すごい思い出として残っています。最初は厳しい口調で、『お前が悔しいのはわかるけど』みたいな感じでしたね。そんなヤナさんの言葉を、選手としてだけでなく、ひとりの人間として大切なことだと受け止めました。だから、それ以降、自分がベンチだとしても、チームが勝てば自分が出たかのように喜ぶようになりました。そういうのは、『こいつはチームのために戦っている。チームとともに戦っている』とチームメイトにも伝わるし、監督にも伝わると思うんです。それが信頼に繋がる。だから、ヤナさんに言ってもらえて本当によかったですね」

――先輩たちに声をかけてもらったことは?

「それはまったくなかったですね。鹿島はそんなに先輩が声をかけるタイプのチームじゃないから。それは自分で乗り越えろ、みたいな感じがあるので。でも僕は、それは最大のやさしさだと思っています。そっと見守るじゃないけれど、そういう感じで接してくれるというのは。何かを質問すれば、答えてくれる。でもそのときも、すべてを教えるわけじゃない。やっぱり、自分で気づくというのが一番大事なことだから。そういうことを教えてくれたり、気づかせてくれたりしたのが鹿島の先輩たちです。本当にすごい人たちがたくさんいて、いろいろ学ぶことも多かった。気づかせてくれる人の存在が僕にとっては重要だったと思います」

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