41歳。冨田大介はずっと目指してきた日本代表を、なぜあきらめたのか (3ページ目)

  • 高村美砂●取材・文 text&photo by Takamura Misa

『実力的に、今のおまえなら、地元・山口県の強豪高校に行って、全国大会で活躍してプロを目指すより、まずは自分を磨いて、関東の大学でサッカーをすることを目指せ』と。

 当時の大学サッカー界は、関東が圧倒的に強かったからだと思いますが、『そこでプレーしていれば、スカウトの目に止まるかもしれないし、筑波大学なら仮にプロになれなくても、教員免許も取れるし、大学を卒業してもつぶしがきくぞ』とも言われました。その言葉に納得して、高校も進学校の宇部高校を選び、それが筑波大学への進学につながった。

 もちろんそうはいっても、高校時代も全国大会にこそ出場できなかったけど、中国大会では3位になったし、自分なりにサッカーにも全力で取り組んでいたんですよ。また、その過程で"日本代表"という目標が芽生えたことで、筑波大学に進学したいという思いもより強くなった。

 もっと言えば、すべてが順風満帆に進んだわけではなく、ケガに苦しんだ時期もあったけど、そのつど『起きたことには意味がある』と思って向き合ってきたことが、結果的に、のちのキャリアにつながったんだと思います」

 一般入試で筑波大学に合格してからの人生も、常に"日本代表"を目標に据えて自分を奮い立たせてきた。

 筑波大学ではそう多くの試合に絡むことはできなかったが、2000年にはJ2リーグに昇格したばかりの水戸ホーリーホックに加入。開幕戦から先発に名を連ね、ルーキーイヤーにして、J2リーグ33試合に出場する。

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