森岡隆三が鹿島で過ごした日々は「ジレンマとの闘いだった」 (4ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko
  • 渡部 伸●写真 photo by watanabe shin

――まさかのリハビリからスタート?

「はい。3カ月くらい出遅れました。同期の橋本(研一)や熊谷(浩二)はトップで試合に出ているのに......。夏になってやっと合流し、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)戦で出場のチャンスがきたんですが、ラモン・ディアスにやられてしまいました。それでサテライトに舞い戻りチャンスが遠のきました」

――コツコツやっていくというふうに考えていながらも、同期がトップの試合に絡んでいるのを見ると焦りもありますよね。

「実際に守備ができていないんだという自覚もありましたし、とにかく必死でした。で、次はベンチに入れるかもしれないぞという手ごたえを掴んだとき、ユース代表に招集されて、チームを離れなくちゃいけなかったり。ユースでも試合に出られず、太って帰ってくるということもありました。そうするとサテライトリーグでベンチを外れることになったりして。トップのベンチ入りかというところから、一気にサテライトでのベンチ外ですからね。イライラすることも当然ありました。『もう今年は身体作りだ』と切り替えたら、今度は腰を痛めたり......そういう上手くいかないというジレンマとの闘いの1年間でした」

――ポジション争いというよりも自分との闘い。

「でしたね。自信がないからこそ『俺はほかの選手とは違うものがある』と、妙なプライドみたいなものを抱き、不安だからこそ吠えていたところもあったと思います。鹿島での生活はそこから抜け出すための時間だったとも思います。イライラ、ウジウジしてばかりだった僕は、先輩たちのかけてくれる言葉に救われました。時に厳しく、時に温かく。食事に誘ってもらったり、家に呼んでもらったり、時には寮のサウナでも。厳しいなかにも優しさや温かさがあって、それに包まれている感じです。鹿嶋は町も小さいし、町ぐるみでというところもありましたね。そのうえで選手と選手との距離感が近い。その空気に包まれているからこそ、オン・ザ・ピッチはもちろん、オフ・ザ・ピッチでも、自然と若手が大人になる、育っていく環境が鹿島にはありましたね。そうやって『プロの世界とは』というのが受け継がれている。それが鹿島の強みの一つなのではないかと思います」

(つづく)

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