森岡隆三が鹿島で過ごした日々は「ジレンマとの闘いだった」 (3ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko
  • 渡部 伸●写真 photo by watanabe shin

――1993年のことですね。Jリーグ開幕後のファーストステージで優勝したばかりの鹿島の練習に参加というのをどのように受け止めていたのでしょうか?

「高校生にとっては、強い=カッコいいというふうには思いましたね。しかも、当時のヴェルディが持っていた華やかなカッコよさとは違う、硬派なカッコよさは私の好みでした。そういうチームの練習に参加できるんだから、当然嬉しいですよ。桐蔭から数名で1週間くらい参加したんです。寮に泊まらせてもらって、先輩の車で練習場へ行きました。サテライトの練習に参加したんですが、とにかく最高でしたね。こんなにサッカーばっかりやっていられる生活があるのかって(笑)。また環境が素晴らしい。鹿島アントラーズがすごいのは、クラブハウスだけでも選手を魅了できるところ。ドイツ遠征で見たバイエルン・ミュンヘンの練習場と同じような感じで、『こんなのが日本にもあるのか』と思いました。ロッカールームの前にはお店であるような冷蔵庫があって、スポーツドリンクがぎっしり詰まっていて、『これは飲み放題なのか?』って思ったり、洗濯された練習着が用意されていて、自分で洗濯しなくてもいいのかと思ったり、与えられる分、相応の責任があるということも考えずに、呑気に『こんな幸せがあるのか』と思いましたね(笑)」

――しかし、当然選手のレベルも高いなかで、自分が試合に出られるだろうかという不安はありませんでしたか?

「そういうことは考えなかったですね。誰とポジションを争うのかということは一切考えなかった。まずはここへ入りたいという気持ちだけですね。たとえなかなかチャンスが巡ってこなくても、鹿島で前向きにコツコツやっていればきっと成長できると」

――当時のJリーグはトップのリーグ戦の試合数も多く、サテライトリーグも毎週のように試合があり、多数の選手が在籍しているので、段階を踏んでトップチームへというイメージだったのかもしれませんね。

「それでも、出来るだけ早くプロに近づきたいと思い、加入が決まってからは、まずは身体を作ろうと徹底的に鍛えました。1994年シーズン開始からチームに合流することが決まっていたんですけど、1月20日すぎには、寮へ行ったんです。でも、誰もいなかった(笑)。『みんな2月くらいにならないと来ないよ』と言われて、ひとりで自転車に乗って、クラブハウスへ行き、走り込みを続けたんです。そしたら、シーズン前のメディカルチェックで、両すね疲労骨折という診断が下されました(笑)」

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