熊谷浩二は鹿島入団をすぐ後悔した。「ここに来なければよかった」 (3ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko
  • 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki

――2000年に24試合出場するまでの長い間、いわゆる控え選手だったわけですが、何が熊谷選手を支えていたんでしょうか?

「単純にこの鹿島というチームに居させてもらえる、ここに適応する可能性があるんだという希望というか、そういう意味でのプライドはありましたね。レベルの高い環境で、味わうのは自分の力のなさや課題ばかりです。鹿島に来る選手は、僕が抱く課題なんて飛び越えたレベルの選手。当然、焦りもありましたし、心の余裕はずっとなかった。それが僕の選手生活です。そういう苦しさがついて回っていたけれど、同時にたとえそれが小さなものであっても、課題を克服し、自分の成長を実感できるという喜びもありました」

――厳しいけれど、手ごたえも感じられる環境だったと。

「環境については非常に感謝しています。とにかく、先輩や同年代の仲間だけでなく、後輩が常に刺激を与え続けてくれましたから。同時にクラブとして、『選手を育てる』というスタンスがあったので、僕のような選手に対しても時間を与えてくれた。なおかつ、鹿嶋という地域柄、あまり誘惑もなく、サッカーに専念するしかない。本当に環境に助けられたし、成長することの喜びをモチベーションにできる力を養ってもらえたかなと」

 ――敵わないなと思うチームメイトのなかで、劣等感を抱くことはなかったですか?

「劣等感......とはちょっと違うんですが、まあそういう差があるんだということを受け入れる、認められるかが大事だと思います。自分がどうしたって敵わない才能のある選手がいる。でも、そういうなかでもチームのために、自分ができることはなにか、力が発揮できることはなにか、チームメイトに負けないものはなんなのかを、本気で追求しなくちゃ生き残るのは難しい。ほかの選手との違いを発揮するしかない。そのうえで、自分が抱いた劣等感を認められるかだと思います。当時は毎日ただ必死で、精いっぱい今日を生きる、今日力を尽くすことだけでした」

――そして、2000年の三冠に。

「最初のタイトルがナビスコカップ(現ルヴァンカップ)だったんですが、自分が決勝戦に出て、タイトルを獲れた時点で信じられない状態でした。決勝に至るまでの間が、代表選手不在で戦ってきたので、まあ、試合に出ることができた。でも、決勝は代表もいる。そういうなかで決勝でも試合に出て、優勝し、チームのために仕事ができたわけです。ずっと夢見たというか、望んできたものが叶った瞬間でした。だから、もうナビスコ優勝だけで飛び上がるほどの喜びがありましたね。でも、リーグ戦も残っているし、天皇杯もある......三冠なんて想像もできなかったけれど、ポンポンとタイトルが獲れて......」

――報われたシーズンとなったわけですね。

「報われたというか、出来過ぎな感じの1年でしたね」

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る