齋藤学が明かす電撃移籍とW杯落選。「今なら話すことができます」 (3ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • 是枝右恭●撮影 photo by Koreeda Ukyo

十字じん帯を損傷した左ひざを指しながら苦悩の日々を振り返る齋藤十字じん帯を損傷した左ひざを指しながら苦悩の日々を振り返る齋藤 それでも日々のリハビリは、前進というにはほど遠い地味な作業の繰り返しだった。何が一番つらかったかと聞けば、「ひざの周りの筋肉に電流を流して、その箇所に力を入れて負荷をかけるトレーニング」だと、自分のひざをさすりながらふたたび笑う。

 走るでも、ボールを蹴るでもないトレーニング。牛歩に近い毎日の連続に、前向きになることもあれば、心が折れそうになったこともある。そんなとき、自分の支えになっていたのが、自分自身で書き記した言葉の数々だった。

「ケガをした日からもう1回、ちゃんと書き直そうと思って、新しいノートに日記というか、いわゆるサッカーノートを書き始めたんですよね」

 そこにはトレーニングの内容から、つらかったことやうれしかったことまで、すべてが綴(つづ)られている。だからこそ、その当時の正確な日付も、率直な心境も、今のことのように思い出せる。

「初めて走れたときは、泣きそうになりましたよね。あれは(昨年の)12月1日でした。前十字じん帯を損傷した場合、だいたいジョギングができるまでに2ヵ月はかかるみたいなんですけど、自分の場合は1ヵ月半だったんですよ。走ったときは『うわぁ、俺、走ってるよ』って思って、走るだけで、こんなにも感動できるんだって感じましたよね。

 ボールを蹴れたときもそう。右足でボールを蹴ったのは12月31日。そこはちょっとだけワガママを言って、年内のうちにボールを蹴りたいって言って蹴らせてもらったんです。それでオフに入ったんですよね」

 復帰に向けてリハビリが進んでいくなか、並行して大きな転機があった。それは転機と表現するには軽く、日本サッカー界に激震が走ったとでも言えばいいだろうか。8歳から横浜F・マリノスの育成組織で育ってきた齋藤が、川崎フロンターレへの移籍を決断したのである。

 その過程での葛藤や苦しみ、そして心境の変化に至るまで、サッカーノートにはしっかりと記されているという。

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