秋田豊が目指すビジョンは「指導者としてアントラーズに戻りたい」 (3ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko  井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki

――そして、1995 年には日本代表デビューを飾り、1998年ワールドカップフランス大会の舞台に立ちました。

「当時のJリーグはすばらしい外国人選手が集まっていたんです。錚々(そうそう)たる顔ぶれの選手がいましたから、世界のスーパースターが。カレカ(柏)にピクシー(ストイコビッチ/名古屋)、スキラッチ(磐田)。エムボマ(ガンバ大阪)だってそうだし。

 僕は毎試合そういう"世界レベル"の選手と戦っていた。彼らエースを抑えるのが僕のミッションだったし、タスクだから。それをやり続けたことが、代表でプレーする自信、ワールドカップで戦う自信に繋がりましたね」

――そして、アントラーズでは、たくさんのタイトルを獲得。不動のセンターバックとして長く君臨しました。

「とはいえ、常に競争、競争でしたよ。僕にもいつも『刺客』が送られてきましたから(笑)。でもそれは当然なんですよ。強いチームを維持するうえでは、競争は必要だし、将来を見据えて、少し年齢のずれたいい選手をどんどん入れて、育てないと空白期間が生まれるし、もしくは高いお金で他から選手を獲得しなくちゃいけなくなるから」

    ――それでも、ポジションを守り切りました。

「そうですね。奇跡的に(笑)。もし、他のクラブだったら、僕は選手としてつぶれていたと思います。僕が代表でワールドカップに出るなんて、誰も思っていなかったはず。もちろん、アントラーズというクラブが僕を育ててくれたことが大きいです。

 それ以外では、早く結婚して、家庭中心の生活を送ることになったのも、鹿嶋という町で暮らしていたから。サッカーに集中できる環境だったからこそですね」

――鹿嶋という場所を考えたとき、アントラーズは勝たなければならないクラブだったと思うのですが。

「僕が加入したとき、フロントの方から、『君たちはまずは鹿嶋という場所を有名にするためにサッカーをするんだ』という話があったんです。町おこしですね。そういう明確なビジョンがあり、そのためにも勝たなくちゃいけない。勝つためのチーム作りをするという流れなんですよね」

――Jリーグが始まってから、鹿嶋の暴走族が減ったという逸話があります。

「減りましたよ(笑)。娯楽がなくて、ストレス発散のためにバイクを走らせていた人たち、実はお祭り好きなんですよ。それが2週間に一度、カシマスタジアムで行なわれている。実際に喧嘩はしないけれど、相手チームとの真剣勝負があるわけですから(笑)」

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