「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。本田泰人はその魂を継いだ (2ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko  井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki

 小笠原満男の一言が、選手たちの思いを伝えていると思った。

「久しぶりの勝利ですね」というこちらの問いかけに、小笠原は吐き捨てるように言った。

「たかが1勝」

 そのスタンスが鹿島アントラーズの矜持(きょうじ)なのだろう。

 中2日で迎えるホームでの浦和レッズ戦で勝利し、連勝しなければ、長崎戦の勝利の意味がないこと選手たちは自覚している。遠藤康が言う。

「楽しみなぶん、勝たなくちゃいけないという気持ちが強い」

 すでにチケットは完売。かつて鹿島の指揮官として3連覇を成し遂げたオズワルド・オリヴェイラ監督率いる浦和をホームに迎える大一番は、鹿島の意地を賭けた試合になる。

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当時の鹿島、ジーコのこととなると話が止まらない本田泰人さん当時の鹿島、ジーコのこととなると話が止まらない本田泰人さん  ジーコからキャプテンマークを引き継ぎ、そのスピリッツの継承者として、鹿島アントラーズの歴史の礎(いしずえ)を築いた本田泰人。帝京高校から本田技研入りしたものの、本田技研がJリーグ入りしないことを表明し、監督の宮本征勝、コーチの関塚隆とともに鹿島入りし、2006年鹿島で現役を引退した。 

――鹿島アントラーズの母体となる住友金属がJリーグ入りを果たしたとき、本田さんをはじめ、本田技研からは、黒崎久志(当時の登録名は比差支)さん、長谷川祥之さん、内藤就行さん、入井和久さん、千葉修さんなど多くの選手が鹿島の一員となりましたね。

「本田技研がJリーグに参加しないことになり、キーちゃん(北澤豪)や石川康などが早々にJリーグに参加するクラブへ移籍を決めるんだけど、『急ぐことはないだろう』と残っていたのが僕らだった。当時、すでに宮本さんは本田を離れていたんだけど、1992年に鹿島の初代監督に就任することが決まり、それを機に移籍することになった」

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