フリューゲルス消滅、アツは「天皇杯で優勝すれば...」と奇跡を信じた (5ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 その頃、主力選手には他のクラブから移籍のオファーが届いていた。吸収合併とはいえ、フリューゲルスの選手全員がそのままマリノスに引き取られるわけではなかった。

 苦労したのは、出場機会のない選手や若手選手たちだ。フロントが受け入れ先を探して動いていたが、打診したチームからなかなかいい返事がもらえず、厳しい状況が続いていた。

 翌年からJ2がスタートするようになったとはいえ、J3まである現在よりも受け皿が少なかったこともある。すでに11月には、どのクラブも来季の編成が決まっていたこともある。そして、フリューゲルスだけでなく、どこも台所事情が苦しかったこともあるだろう。

 そういう事態にあって、行き先が決まらない選手たちは、チーム存続に向けた運動にばかり集中するわけにはいかなかった。自らのことはもちろん、家族の生活を守るためにも、来季プレーする場所を探さなければいけなかった。

 そのため、レギュラー組と控え組との間で、次第に存続運動に対する熱量に差異が生じ始めていた。それは、三浦も十分に感じ取っていた。

「みんな、チームを存続させたい。その思いは一緒だった。でも、それぞれ置かれている状況が違うんでね、選手個々で(存続運動に対する)熱意に差はあったと思う。試合に出ている選手はチームがなくなっても他に移籍してプレーできるけど、試合に出ていない選手は移籍先があるかどうかもわからない状態だったわけだから。

 そうなると、生活できない。生きるためには、きれいごとだけじゃ済まなくなる。そういう微妙な立場にある選手たちは、僕らには見せなかったけど、いろいろな思いがあったと思う」

 三浦は当時23歳ながら、若手からは兄貴分的な存在として慕われ、年長の選手たちからも一目置かれていた。そうした立ち居振る舞いができるようになったのは、入団当初に目の当たりした出来事が影響しているという。

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