2018.02.18

ヴェルディユース初の教え子の最終戦で、
永井秀樹監督は何を語ったか

  • 会津泰成●文・撮影 text&photo by Aizu Yasunari

 永井は次に、『運動選手』と綴って話を続けた。

「一流と呼ばれる運動選手は『運』を自分で『動』かせる人。『あいつは運がいいよな』とか、『運よく勝てた』とか言うけど、運と偶然は違うものだ。運動選手に限らず、一流と呼ばれる人は皆、『運』を、つまりチャンスを自分で引き寄せることができる。みんなも、自分で『運』を『動』かせる一流の選手、一流の人物になってほしいし、そうなれると信じている」

『七転八起』、そして自分で『運』を『動』かす、ということ。

 それは、永井のサッカー人生そのものに思えた。

 Jリーグ開幕元年、黄金期のヴェルディに始まり、福岡ブルックス(現アビスパ福岡)、清水エスパルス、横浜フリューゲルス、横浜F・マリノスなど、永井は所属したクラブのほとんどでレギュラーとして活躍し、タイトル獲得にも貢献した。そのことから、「優勝請負人」とも呼ばれた。

 20代は常にスポットライトを浴びる、まさに華やかなサッカー人生だった。

 だが、30代になると、境遇は一変した。苦難の連続だった。

 移籍先が決まらず、1年間の浪人生活も経験した。「地元で現役生活を終えたい」という願いもあって入団した大分トリニータでは、実力とは関係ない理由で出場機会を与えられず、戦力外通告を受ける屈辱まで味わった。

 ただ、永井はどんな立場、環境にあっても、向上心は決して失わず、真摯にサッカーと向き合い、理想を追求し続けた。「自分を必要としてくれるならば」と、当時地域リーグに所属していたFC琉球でもプレーした。

 さまざま経験をして年齢を重ねるごとに、永井にとっては"サッカー道"を極めることが人生の目標になり、華やかな舞台や名声に対しての興味は薄れていった。