2018.02.02

あのストイコビッチがベンゲル就任に興奮。
「素晴らしい監督だよ!」

  • 飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi

【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (2)】

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欧州を離れ、日本にやってきたピッチの妖精

 1990年イタリア・ワールドカップにおいて、「大会ナンバーワン10番」としてディエゴ・マラドーナを凌ぐ評価を得た天才MF――。”ピクシー”ことドラガン・ストイコビッチは、ジーコやピエール・リトバルスキー、ギド・ブッフバルトら大物選手が顔を揃えた創成期のJリーグにおいて、まぎれもなく超一流の選手だった。

競り合う名古屋のストイコビッチ(左)と浦和のブッフバルト(右)photo by AFLO

 しかし、そんな彼も、ワールドカップ以降は不遇をかこっていた。

 フランスの名門、マルセイユの新10番として迎えられた1990-1991シーズンは、開幕して早々に左ヒザを負傷し、その後のシーズンを棒に振った。1991-1992シーズンはセリエAのヴェローナに期限付き移籍したものの、ケガの影響もあって不完全燃焼に終わっている。

 ユーゴスラビア代表としては、欧州選手権の予選を勝ち抜いて1992年夏の本大会出場を決めたが、ユーゴスラビア内戦への国連の制裁措置としてFIFA、UEFAから代表チームの活動停止処分が下され、出場権が剥奪された。

 その後、1992-1993シーズンにマルセイユに復帰すると、チームはリーグ5連覇と欧州チャンピオンズカップ優勝を達成。ところが、リーグ戦での八百長が発覚し、1994年3月に、2部降格とチャンピオンズカップ優勝の剥奪が決定する……。

 名古屋グランパスからのオファーは、こうした不運が続くなかで届いたものだった。アーセン・ベンゲルと同様、欧州サッカー界に身を置くことに疲れていたストイコビッチは、半年間だけ日本でプレーするつもりで移籍を決断する。

 1994年6月10日、ストイコビッチは真っ赤なスーツに身を包んで成田空港に降り立った。正式契約を結んだ後の13日の会見では、「名古屋にはドラゴンズという野球チームがあるから、私のドラガンという名前も覚えやすいと思う」とリップサービスも飛び出した。

 テクニックが錆びついていないことが証明されたのは、大雨の中で行なわれた9月17日のジェフユナイテッド市原戦だった。後半29分に直接FKで移籍初ゴールを決めると、ゲーム終盤には、グチャグチャにぬかるむピッチを避けるため、リフティングしながらボールを40m近く運んでスタンドのどよめきを誘った。