証言でたどる「ベンゲルがいた名古屋グランパス」がもたらしたもの

  • 飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi

【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (1)】

 1996年から20年以上にわたり、プレミアリーグの名門・アーセナルの指揮を執るアーセン・ベンゲルは、これまでに多くの栄冠をクラブにもたらしてきた。近年では"風当たり"も強くなっているが、このフランス人指揮官がアーセナルの監督に就任する直前までJリーグの名古屋グランパスを率いていたことを、どれだけの人が覚えているだろうか。

 1993年に産声を上げたJリーグに、創設時から参加する「オリジナル10」のひとつである名古屋グランパスだが、1年目、2年目ともに下位に低迷していた。"Jリーグのお荷物"とまで言われていたクラブが、ベンゲルの手によって生まれ変わっていく姿は、日本のサッカーファンに衝撃を与えることになる。

 ベンゲルは、日本サッカーに何をもたらしたのか――。

 リーグ創設25周年を迎え、名古屋グランパスがJ1の舞台に戻ってきた2018年に、当時を知る証言者たちの言葉から「ベンゲルがグランパスにいた1年半」を振り返る。

1995年のJリーグで、名古屋グランパスの指揮を執るベンゲル photo by Getty Images1995年のJリーグで、名古屋グランパスの指揮を執るベンゲル photo by Getty Images
新監督は、オランダ人でもセルビア人でもなく......

 10月末のことだったか、それとも、11月に入っていただろうか。

 1994年の秋、名古屋グランパスの小倉隆史は、名古屋市内のホテルのラウンジで次期監督候補とされる人物と会っていた。

 当時21歳だったストライカーが面会したのは、オランダ人指揮官のフース・ヒディンクである。この4年後にはレアル・マドリードを率いてトヨタカップを獲得し、2002年の日韓ワールドカップで韓国代表をベスト4へと導くことになる名将は、このとき47歳。PSVアイントホーフェン、フェネルバフチェ、バレンシアの監督を歴任した才気溢れる指導者だった。

 1993年のJリーグ創設1年目を、10チーム中9位で終えたグランパスは1994年、イングランド人のゴードン・ミルン監督を招聘したが、前年以上の低迷を強いられた。この年限りでミルンの退任が決定的となり、「Jリーグのお荷物」と揶揄(やゆ)されるチームを建て直すべく、クラブは新監督のリストアップに取りかかっていた。

 その第1候補が、ヒディンクだったのである。

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