証言・福田正博。あの「何の意味もないVゴール」に至る屈辱のシーズン (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 ピッチを歩いていると、ポロポロと涙がこぼれてきた。

「あのゴールには、何の意味もなかった。だって、もうすべてが決まっていたからね」

 福田はあの場にいたときのような、憂鬱そうな表情でそう言った。延長戦を前に、すでに浦和のJ2降格は決まっていたのである――。

 遡(さかのぼ)れば、このシーズン、浦和に最初の暗雲が漂い始めたのはファーストステージの中盤からだった。

 浦和はその前年から原博実監督が指揮を執り、福田をはじめ、新人の小野、外国人選手のチキ・ベギリスタインやペトロビッチらの活躍によって、同シーズン(1998年)はファーストステージ7位、セカンドステージでは3位という好成績を残した。そして、迎えた1999年シーズンは、その戦力を維持して、ステージ優勝、さらには年間優勝を目標としてスタートを切った。

 ところが、小野がワールドユース(現U-20W杯)出場のため、およそ1カ月間チームを離れた。さらに、攻撃の軸となるベギリスタインやペトロビッチも負傷などによって戦列を離れることが多く、戦力が著しく低下。第7節からの9試合は1勝1分け7敗と惨たんたる結果に終わり、ファーストステージは13位と低迷した。

 その成績にフロントは危機感を抱いた。

 この1999年シーズンから、JリーグはJ1、J2の2部制がスタート。同シーズンの規定ではJ1の16チーム中、年間順位で15位以下の2チームが、J2に自動降格することになっていたからだ。

 そこでフロントは、原監督を解任したのである。

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