甲斐修侍と歩んだフットサルの歴史「教科書も何もなかった」 (6ページ目)

  • 河合拓●取材・文 text by Kawai Taku
  • 高須力●撮影 photo by Takasu Tsutomu

 今は「町田」という土台があるので、将来の方向性が見えやすい環境になっている。行政の人をはじめ、多くの人に応援してもらってホームゲームを開催でき、たくさんのファンやサポーターが来てくれるようになりました。

  今後は、フットサルの試合のチケットが簡単に手に入らないようにならないといけない。町田体育館には2000人ほど入るけど、実際の集客は 1000~1500人という状況です。これを近い将来、変えていかないといけません。チケットを求めるファンに対して、「ごめんなさい、売り切れてしまいました」と言えるように。

 そのためには、規模とかお金だけではなく、プロの環境が必要です。世界と本当に戦うためにも。お客さんに試合を 披露するわけですから。今、町田は午前中しか練習できていませんが、仕事をしている午後の時間を自分のトレーニングにあてたり、全員で2部練習をしたりと いうところに、クラブとしては持って行かないといけません。

 その前にまずは今シーズン、イチ選手としてやり切ります。月並みな言葉になっ てしまいますが、ここまで現役生活を続けさせてもらったことに、感謝の気持ちしかありません。クラブの代表という立場で、選手よりもやらないといけないことがあったのに、常に選手として、プレーすることを最優先にやらせてもらえました。協力、応援してくれた人たちのおかげで、20年にもわたってプレーする ことができました。そうしたたくさんの人たちに、がんばっている姿をお見せしたいと思っています。

【profile】
甲斐修侍(かい・しゅうじ)
1972年3月22日生まれ、宮崎県出身。ペスカドーラ町田所属の選手兼クラブ代表。小学3年のときに大阪の高槻松原FCでサッカーを始め、第7回全日本少年サッカー大会で全国3位。中学2年 時にはJr.ユース日本代表に選出。阿武野高校から関西社会人1部リーグ東大阪FCを経て、京都のKYOKEN FC所属。京都府の国体選手として愛知県で開催された「わかしゃち国体」で優勝。25歳のときに山梨県で伝説のフットサルチーム「AZUL(アズー)」を 結成し、第3回全日本フットサル選手権で準優勝する。その後、神奈川の「エスポルチ藤沢」を経て、1999年にペスカドーラ町田の前身となる 「CASCAVEL(カスカヴェウ)」を設立。2001年には日本人初のプロ選手としてブラジルでプレーするなど、黎明期からフットサル界を牽引するカリ スマ。168cm・64kg。

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