【育将・今西和男】小林伸二「ストライカー育成法の原点は『広島』にある」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 島原商業で九州初の全国制覇(高校総体)を成し遂げた後に、大阪商業大学に進んで大学日本一も経験した小林が、1983年にマツダに進路を固めたのはやはり今西の勧誘が大きかった。FWで勢いよく突っ込んでいくスタイルを見て「弾丸みたいな選手」と評価した今西は、東京教育大(現・筑波大)時代の先輩である上田亮三郎(大商大監督)に家庭環境などを聞いたうえで、広島のマツダが長崎の実家に近いという利便性を説いて獲得に成功する。

 小林が配属された職場は課長が今西、主任が高田豊治(後にJヴィレッジ副社長、現東日本国際大学サッカー部監督)とまさにサッカー部の直属であったために、チーム改革の情報が伝わってくるのも早かった。

「今度、オランダからオフトという監督を連れてくるぞ」

 1984年のことである。小林は島原商業時代に高校選抜で、スイスのベリンツォーナで行なわれた大会に出る際に、オランダで1週間キャンプをしたことがあり、その時にオフトにコーチングを受けていた。若かったオフトが左足から繰り出すフリーキックがすごく上手かったという記憶があった。

 そのオフトが来日し、指導を始めた。他のマツダの選手同様に、そこで小林が受けた衝撃は大きかった。

「オフト監督はサッカーにおいて、すべてが具体的なんですよね。言葉もそうなんです。一番初めに言った言葉が、タイミング、アングル、ディスタンス。要するに機会(間)、角度、距離ですよね。タイミングが悪くないか、距離として遠くないか。真後ろだった角度はアングルが変わることで、三角形を作れて1つ前が見えるというような、そういうサッカーの構築。まず個人技術があって、次に個人戦術、それがグループ戦術に変わっていくための言葉をオフト監督は話すわけです。そういうキーがものすごく多くて、サッカー観が変わりました。

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