【育将・今西和男】上野展裕「広島OBの指導者が活躍している理由」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by AFLO

 初対面であったが、上野は熱い思いのままにマツダのサッカー部に入団したいという気持ちを伝えた。今西はひと言、「分かった」と告げた。「会社に対していろんな部署で調整して、入社してプレーをしてもらう」。くしくも高木琢也のフジタからの移籍とほぼ同じ時期となった。

「ところで」。ここで今西は意外な質問をぶつけてきた。「選手としての現役を終えたらどうするつもりだ?」えっ、入る前から引退後の話か、と思った。「まだそこまでは考えていません」と素直に答えた。

「それなら指導者はどうだ? 辞めた後に指導者の道というのはいいぞ」

 振り返ってみれば今西はすでにこの段階で上野の適性を見抜いてセカンドキャリアを提案していたと言えよう。

 上野は移籍した92年にマツダで19試合に出場、Jリーグ開幕後はサンフレッチェ広島で現役を続けるも2年間でリーグ戦での出場はなく、94年シーズンの終了後に引退。現役選手としての大きな実績を残すことは出来なかったが、即座にサンフレッチェ・ユースのアシスタントコーチに就任する。ユースチームの練習は午後からなので昼前は空いている。すると今西は「お前、午前中がヒマなら勉強するか?」と聞いてきた。トップチームの監督ビム・ヤンセンのアシスタントにも就けということであった。
 
 例によって上野も入社直後から今西にマツダ本社での英会話教室への出席を推奨されており、語学は習得していた。外国人監督とのコミュニケーションには不自由しなかったので願ってもない機会であったが、それだけでもなく今西はクラブに掛け合って給料もアップしてくれた。

「そんな機会を与えてくださっただけでもありがたいと思っているのに、そうしたらさらに『2倍の仕事をするんだから、上げておくなって』。背筋が伸びました。後から知ったんですが、今西さんは移籍の際にも問題のないように全日空に移籍金を払ってくれていたんです」

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