【育将・今西和男】松田浩「ディフェンスが、こんなにもおもしろいとは」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   photo by AFLO

 バクスターにとっては、成田空港に迎えに来た最初の広島側の人間が松田ということもあり、コミュニケーションは出会いから良好だった。当時は外国人監督も社宅住まいである。バクスターは4号棟の401号に入居が決まった。松田は301号であったから、ちょうど部屋は真下になり、以来ピッチ上での通訳のみならず、私生活も含めたほぼ24時間を一緒に過ごすようになった。これが非常に勉強になった。北欧のエコロジー観点からか、練習場に行くときも「同じ建物から同じ練習場に行くのに、2台の車で行くことはない。月・水・金は俺が車を出すから、火・木・土はお前が出せ」と互いに便乗して通うことを提案してくれたので、松田はいつでも往復する車内でサッカーについて聞きたいことが聞けた。
 
 練習が始まると、松田は通訳兼フィジカルコーチ兼アシスタントコーチとして、ピッチ上で奔走した。初めて聞くゾーンディフェンスのメソッドは新鮮で、聞いた英語を自分の言葉で翻訳して、選手に説明していくうちに自然と戦術も理解していった。筑波のスポーツ医学の教授に作ってもらったリハビリメニューをこなしながら、選手の足らない紅白戦などに出場していくうちに、回復をあきらめていた膝がどんどん回復していった。そうなると最も戦術理解をしているのは当然、松田ということになり、バクスターは自分がやって欲しいプレーを忠実にこなしてくれるプレーヤーとして、現役復帰を求めてきた。同じポジションには国見から高卒で入団した路木龍次がいたが、レギュラーにはまだ時間がかかりそうであった。
 
 しかし、松田には躊躇があった。一度身を引いた人間が、またJリーグ開幕直前の晴れ舞台に出てくるのはどうにも気が引けたのである。「では、1ヶ月間選手と一緒に練習してみて、それで使い物になるようでしたら復帰します」と、日本的で曖昧な提案をした。

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