【育将・今西和男】松田浩「一目で、この人にならついていけると思えた」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   photo by AFLO

「こういう守り方があるのか」。衝撃的で、そして痛快だった。散々やられていた韓国のチームに組織で勝つことができてきた。オフトでまずモダンなサッカーの洗礼を受けると、次の監督はイングランド人のビル・フォルケスであった。

 フォルケスは父親のような存在であった。マンチェスターUが遭遇し、23人の死者を出した飛行機事故『ミュンヘンの悲劇』から生還した人物であることは選手も知っていた。ある日のミーティングで戦術について語っていたとき「何か質問はあるか?」とフォルケスが聞いた。少しの間のあと、河内勝幸が手を挙げた。「あの事故について語って欲しい」(えっ、何を聞くんだ河内さん。それはタブーだろう)。松田は驚いたが、フォルケスは少しの逡巡のあとに訥々と体験を語りだした。

 フォルケスの任期が2年間で終わると、松田が終生大きな影響を受ける指導者スチュワート・バクスターとの出会いが待っていた。


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【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)-東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める


松田 浩(まつだ・ひろし)
1960年9月2日、長崎県生まれ。長崎北高、筑波大を経て、1984年マツダに入団。1993年Jリーグが開幕し、サンフレッチェ広島でプレー。1994年1stステージ優勝を経験した。1995年ヴィッセル神戸に移籍し、1996年現役を引退。2002年ヴィッセル神戸のコーチ時に、川勝良一監督がシーズン途中に解任されて後任に。チームを立て直して、J1残留を決めた。その後、アビスパ福岡、ヴィッセル神戸、栃木SCで指揮を執った。現在は日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチを務めている

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