【育将・今西和男】松田浩「一目で、この人にならついていけると思えた」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   photo by AFLO

 1984年、松田は同じ名前のマツダに入社をしたが、ショックなことに入部時にチームが2部リーグに降格していた。正直、「何だよ」と落胆もしたが、次の監督がハンス・オフトであるということを知って、急速にモチベーションがV字回復していった。外国人監督に教わるということ自体がめずらしい時代であった。これもまた「自分では教えられない」と無駄なプライドを排して、そう宣言した今西が代わりにサッカー先進国から連れてきた財産であった。勤務形態も会社に掛け合って、2部練習が週に3回できるようになった。
 
 松田にとってオフトの教えは、すべて新鮮に映った。FW出身のこのオランダ人は技術もあって、現役を引退して久しくも「まだラスト15分だけなら公式戦に混じってもゴールをするんではないか」というほど上手かったし、ファンクショナルなテクニックを伝授することに長けていた。そして何よりも組織戦術を注入してくれた。
 
 象徴的な試合がある。マツダは韓国遠征で大学のチーム、高麗大や延世大にもなかなか勝てなかった。当時の日本代表のサッカーにも通底していた問題であるが、11対11の局地での個人戦を韓国に仕掛けられると、技術も体力も劣っていた日本はスペースを食い破られて失点を重ねてしまう。ここにオフトは組織で守るシステムを注入した。現在のルールでは無理だが、効果的なメソッドがひとつあった。相手チームの選手のトラップが乱れるなどして、すぐに蹴られない状況になると「チェイス!」と叫んで全員がラインを上げてボールに向かってプレスをかけるのである。慌てて蹴ろうとしても当時のルールでは、直接プレーに関与していなくても取り残されるとオフサイドになるので、面白いように相手は引っ掛かった。この「チェイス」をかけるタイミングは松田に任されていた。さすがに全員によるボール狩りはハードワークなので45分ハーフごとに2回しかやってはいけないことになっていたが、それで十分だった。相手は一度やられると、その恐怖でミスを連発していた。

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