【育将・今西和男】松田浩「一目で、この人にならついていけると思えた」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   photo by AFLO

 1年間の留学を終えて復学すると1学年下の風間八宏、鈴木淳らと同級になり、筑波の黄金時代を作り上げ、1983年の関東1部リーグで優勝を果たす。卒業に際してはユニバーシアード日本代表にも選出されることになる松田を多くの日本リーグのチームは放っておかなかった。いくつかのチームの練習に参加もしたが、決め手となったのが広島で直接話をした今西の存在だった。

「この人になら、ついていけるなと思えたんです。比べたら悪いですけど......他のチームではサッカー部はほとんど仕事らしい仕事を任せてもらえないと聞いていたのですが、今西さんは社会人としても成長しろと言ってくれたし、仕事面でも鍛えてもらえそうだった。当事はプロもなかったですし、僕は元々、 将来は地元の長崎に帰って教師をやろうと考えて大学を選んだんです。親にもそう言って出してもらった経緯があったから、引退しても仕事で会社に残れるような生き方をしたかったんです。それにはまったのがマツダでした。今西さんはペラペラと偉そうに『わしに任せとけ』なんて絶対言わないんですが、 そういう面倒見の良さがオーラとして漂っていたんですね」
 
 スカウトがよくやる口八丁の勧誘トークを今西はしないし、できない。性格的なものもある。マツダの総監督に就任するときも、多くのOBたちは自分が再建したいと自分から手を挙げていた中、今西はむしろ固辞していた。「職場に戻ってサッカー界を離れて久しい。今のサッカーを私は教えられません」という理由であったが、会社は今西しかいないということで託したのである。

 数年後にもこんなことがあった。マツダには昇級試験制度があり、サッカー部の社員もそれに備えた予行演習として、今西をはじめとする先輩や上司に模擬面接などをしてもらっていた。実直な松田はボソボソと呟くように受け答えをするので、多くの先輩は「もう少し流れるように話せないのか」とダメを出した。しかし、今西だげが「いや、わしは松田のそういう朴訥な感じのところがええんと思うんじゃがのう」とやはりボソボソとした口調でOKをしてくれた。

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