【育将・今西和男】マツダの寮長から、日本サッカー界初のGMへ

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 今西は日本代表にまで上り詰めた後、腰を悪くして1969年28歳のときに現役を引退。それから12年ほど、サッカーから離れていた時期があった。この間、独身寮の管理運営統括に就いていた。ひとくちに寮長と言っても、通常イメージするものとはケタが違う。現在とは異なる高度経済成長期であり、地方から「金の卵」と呼ばれた中卒、高卒の若者たちが頼もしき労働力として、大手企業の工場に次々に参集してきた時代である。

 当時、広島の府中にあったマツダのマンモス寮は全部で9つあり、約7500人が居住していた。それはもはやひとつの町であった。その町の住民をまとめなくてはならない。それぞれの部屋は4人が暮らし、二段ベッドと奥に四畳半という間取りである。皆、血気盛んな10代、20代である。ケンカ、事故、人間関係のトラブル、自殺、さまざまなことがあった。

「自殺した子がいて、そのご遺族に連絡をするときは本当に辛かったですよ。なぜ、見ず知らずの親御さんに私が会わなければならないのだろうか、と考えたこともありました。でもね、『お世話になりました』とご挨拶をされる親御さんの姿を見て、ああ、俺の考えは間違っていたなと反省しました。私は神様じゃないけれども、こうやって預けた息子を亡くされた方が敬意を払ってくださるのを見て、この寮生たちのお世話を精一杯しようと思いました」

 寮内にビールの自販機があり、普通に飲酒がされていた時代に20歳未満の禁酒を徹底した。

 また、当時の寮の管理人は自衛隊出身者が多く、トップダウンで「言うことをきかせる」というやり方が主流であった。しかし、それではもはや若い人材を育てられないと感じた今西は、寮生の間でリーダーを選出させて、自主的に管理をさせる方法の重要性を説いた。寮の主役はあくまでも暮らす若者たちであるという、この自治を重んじる運営の仕方は反発する者もいたが、やがて好評を博し、スムーズに回っていくようになった。

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