【育将・今西和男】 被爆の後遺症を乗り越えて、日本代表選手に (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 それでも2年生になると、この競技の魅力には抗えなかった。試合があると必ず観戦に来る今西に対して、1年先輩の野村六彦(後のJSL得点王)が勧誘し、転向した。とは言え、ほとんど初心者だった。

「ボールテクニックが上手くなる“ゴールデンエイジ”と呼ばれる時期に、(自分は)ボールを触っていませんからね。技術はない。それに左足が突っ張って、思い通りにならないことに対する苛立たしさがありました。左サイドバックを任されたんですが、スペースがあって上がって行っても、その先の仕事ができないんです。ウイングとしてクロスを上げられない」

 左足をまっすぐ振ったつもりでも、ボールに触れていない。先輩が言った。

「お前、キックが悪いから、これを蹴って(右足の)練習せい」。ゴールポストに藁を巻きつけて、素足で蹴る練習を課せられた。皮が破れて血がにじんだ。しかし、道理もあった。足の甲で正確にヒットすれば痛みはない。繰り返すことによってミートするポイントが固まっていくのだ。この練習を続けていくうちに今西は右のインステップが上手いと評価されるようになった。

 母校での初めての公式戦に出場したときは、在校生がたくさん応援に来てくれたが、それがまた恥ずかしかった。「観客全員がずっと私のケロイドを見ているように思われて仕方がなかったんです」

 観客が自分だけを注目するとは、ありえない話であるが、それほどに被爆したことで受けたコンプレックスが根強く残っていた。中学生時代は激しい運動ができず、神経が優しすぎるほど繊細なうえ、左足は火傷の後遺症で蹴れない、そんな選手が気の遠くなるような努力を重ねて、やがて日本代表にまで上り詰めていった。

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