【育将・今西和男】 被爆の後遺症を乗り越えて、日本代表選手に

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 幼い子どもにとって、先行したのは痛みではなく恐怖だった。母の背中から見た光景は一生忘れることができない。ガラスの破片が身体中に刺さり、逃げ惑い水を欲しがって、うめいている人々の群れ。自分自身も血まみれで、気がつけば足が酷く焼けただれていた。以来、今西の左足の指は突っ張ったままで自在に動かせなくなった。医薬品は底をついたために救護所で施された治療は、ただ赤チンを塗るだけ。患部にハエが卵を産み、ウジが這い回り、それをピンセットで取られるのが痛かった。左腕、左足全体に残ったケロイドも大きなコンプレックスとなった。

 住む家が破壊されたので、家族は矢賀町に引っ越した。物資もなくて社会的な混迷は続いていたが、母親がミシンを使った裁縫の内職で家計を支えてくれた。1947年には米国によって被爆者の調査研究機関ABCC(原爆障害調査委員会)が広島に設置された。ABCCは被爆者に対する治療は一切施さず、「アメリカにとって重要な放射線の医学的生物学的な影響を調査する」(米国海軍省よりトルーマン大統領に送られた書簡)機関として採血や触診を行なった。子どもたちは小学校で定期的に裸にされて、レントゲン写真を撮られた。

 今西は足が速く、運動神経も良かったので中学入学時には運動部に入ることを楽しみにしていた。しかし、ツベルクリン検査で陽性反応が出てしまったことで、激しい運動を断念せざるを得なくなった。

 進学した舟入高校では柔道部に入部した。中学生時代に近所の国泰寺高校で観戦したサッカーは好きであったが、サッカー部が授業を妨害するようなガラの悪い上級生の巣窟になっていたことと、短パンになってケロイドの痕を見られることが、どうしても恥ずかしかったこと。また左足の不具合が気になり、入部を躊躇させた。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る