【育将・今西和男】「恩返ししなければ」 高木琢也が決意した理由 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 こうして高木はフジタに進んだが、チームのスタイルになかなか馴染めなかった。前線で高さの利を生かし、献身的に潰れ役になることも厭わない。しかし、当時のフジタのゲームの作り方にはフィットしなかった。

 今西はこの頃、広島から高木のプレーをこう見ていた。「あいつのスケールの大きいプレーは、ヨーロッパの監督の指導でこそ花開く、もったいないのう」

 最終的にフジタも89-90シーズンでJSL11位となって2部に降格してしまう。

 ちょうど93年からJリーグがスタートすることになっていたが、フジタ(ベルマーレ)はオリジナル10から漏れていた。どうせなら初年度から勝負したいという気持ちがある。高木は移籍を念頭に母校大商大の上田監督に相談に行った。

「プロでやりたいのです」。上田は再び今西を紹介した。今西は一度断りを受けながら、高木の意向を伝え聞くと何の逡巡(しゅんじゅん)もなく、マツダとして即座に手を挙げてくれたのである。高木もこれには感激した。何の契約条件を挙げることもなく、「お世話になります」と頭を下げた。

 今西のケアはそれだけではなかった。進路は決めたものの、日本リーグのチーム間の移籍ということで、移籍証明書が1年間、発行されなくなった。すぐにマツダでプレーすることは出来ないが受け入れるしかなく、高木は1年間、浪人するつもりでいた。4月で期が変わるとフジタを退社し、大阪の友人のアパートに住み込んで、大商大の練習に参加していた。しかし、長きにわたって実戦から遠ざかれば、せっかく身に付けたフィジカルも技術も停滞する。

 今西はここで高木に対して、前監督ビル・フォルケスの伝手を辿って、マンチェスター・ユナイテッドへの留学をセットする。前年からマツダのこのシステムは作動していて、森保も含めた若い選手が渡英していたが、高木はまだ登録さえされていないのである。

 この計らいで「アジアの大砲」はイングランドに渡る。

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