【育将・今西和男】 森保 一監督が継承する「サッカー哲学」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 森保の戦う姿勢はこのマンUの伝説のキャプテンから学んだ。ほんの少しでも球際で激しく行かなかったり、セカンドボールに走らなかったりすれば、フォルケスは座っていたパイプ椅子を投げつけて怒鳴りまくった。

 視野の広さは、やがて危機管理能力に繋がり、労を厭(いと)わない運動量とタックルは、相手の決定的なパスやサイドチェンジを遮断するスキルとなって開花する。マツダにおいて不動のレギュラーの座を獲得した。

 1990年、今西はフォルケスのツテをたどって、マンUに森保を含む4人の若い選手を1ヶ月の短期留学をさせた。サッカーの母国でプロとはどういうものであるかを実際に体験させたのである。帰国後、全員にレポートを書かせ、部員の前でのスピーチをやらせた。試合中に声のコーチングはしても、人前で話をするのは苦痛とするサッカー選手は少なくない。チームメイトがしり込みをする中、森保は真っ先に手を上げて堂々と20分、マンチェスターで体験してきたことを話しきった。

「これで一人前になったな」と今西は感じた。体験を言語化することで学んだことが再び認識出来る。

 直後、森保は結婚式を挙げる。主賓としてあいさつをした今西は冒頭で新郎に向かい、「お前はプロになる気があるのか?」と問うた。Jリーグの開幕を控え、マツダもプロ契約を選手と続々と結んでいた。親類縁者が集まる晴れの挙式の場でその決意を質(ただ)したのである。かつて漠然とどこかの会社で、働きながらサッカーを続けられればよいなと考えていた男は「あります!」と大きな声で答えた。

 その後の森保の活躍は、多くのサポーターの知るところである。一度マツダを去ったオフトが1992年に日本代表監督に就任すると、いきなり日の丸を背負わせて先発に大抜擢する。デビューとなった同年のキリンカップのアルゼンチン戦(0-1で敗戦)では、緊張しながらも持ち前の泥臭いプレーで際立った存在感を発揮し、敵将のバシーレ監督から高い評価を受けた。日本に守備的MFが生まれた瞬間であった。17年にわたる現役の引退後は指導者の道を選び、2012年に古巣のサンフレッチェ広島の監督に就任。即座にJリーグ2連覇を成し遂げた。オフトの予言が見事に当たった。

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