【特別寄稿】FC岐阜・恩田社長、病気公表までの苦悩と葛藤 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text & photo by Kimura Yukihiko

 恩田は考えた。リピーターを増やす具体的な施策は、自分がサッカーの門外漢なので、むしろプレーで人を呼ぶと言うよりもそれ以外のもので人を呼ぶことを考えた。サッカーを知らない人も、とにかくスタジアムに来てもらうという手法を取ったのだ。

 2014年7月30日のファジアーノ岡山戦では「スタジアム居酒屋」というイベントを行なった。入場口にビールのサーバーを置いて男性1500円、女性1000円の飲み放題サービスを提供したのである。乾杯!で試合が始まり、終了後は一本締めの音頭を取った。ノー残業デーの水曜日ということで、会社帰りのサラリーマンが多数やって来てくれた。

 マスコミの取材があれば、恩田は自ら広報役も買って出て話した。病気のほうは徐々に進行が始まっていた。麻痺は右半身から左半身に移行しつつあったが、誰にも気づかれないように注意していた。8月にはセカンドオピニオンとして名古屋大学病院でも検査を受けたが、やはりALSという診断がなされた。シーズンは待ってくれない。恩田は仕事に没頭した。

 ちょうどこの頃、ラモス監督のところにALSの認知度を上げるために著名人が氷水を被るという、アイスバケツチャレンジのオファーが来た。広報からその話を聞いたときの恩田は極めて複雑な感情に襲われた。すでに有名人がはしゃいだ映像が流通し始め、それはセレブが自身のプロモーションに利用しているに過ぎず、治療研究には貢献していないのではないかとの批判の声も多く上がっていた。何より、恩田は当事者である。心中を察するにあまりある。それでも、やはり淡々と広報に伝えた。「冒頭に病気の紹介を必ず文章で入れてこのチャレンジの趣旨を外してはいけない」

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