【特別寄稿】サッカーJ2、FC岐阜・恩田社長の決意と覚悟 (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 やがて、現場を知る得難い人材として、会社の中枢に引き上げられて行く。その後、合弁会社に出向し、大阪に戻ってから経営企画をやり、経理に放り込まれた。責任者が辞めてしまっていたので引き継いだのだが、すでに2004年に会社はマザーズに上場していたためにそこからが地獄だった。上場企業の経理ほど困難なものは無い。慣れない仕訳を切ったり、「経理の責任者なのにこんなことも知らないのか」と監査法人の人間に怒鳴られたりしながら必死に食らいついていった。しかし、ここでの経験のおかげでいわゆる会社の「帳簿」が見られるようになった。現場で培ったホスピタリティに、実践で身についた経営の数字感覚が合わさったのである。

 そのうち、会社が傾き出して、資金繰りに奔走しなくてはならなくなった。銀行や金融会社に頭を下げているうちに仲介する人物が現れ、貸金業のネオラインキャピタル(Jトラストの前身の不動産会社)代表の藤沢信義に出逢った。最初は資金繰りを頼んだが、藤沢は「それなら出資するよ」と筆頭株主になってくれた。藤沢も岐阜出身、そして東京大学医学部時代にゲームセンターのエリアマネージャーをしていてアミューズメントビジネスにはシンパシーがあったのだ。

 ネクストジャパンは2008年にJトラストのグループに入った。恩田はそこから本部で総務、システム、人事、法務など会社の根幹を担う部門の担当役員を務めた。おかげで株主対策から、採用、裁判に至るまで経営者として多くの経験を積むことが出来た。


退路を断って、サッカーの世界へ

 それは2013年の年末、Jトラストの仕事納めの日だった。経営戦略部長になっていた恩田は帰り際に藤沢に呼び止められた。「お前、FC岐阜に興味あるか?」

 藤沢が故郷の岐阜に対する恩返しとしてこのサッカークラブをサポートしていたことは知っていた。2013年に個人として1億5千万円の支援をしていたのである。「ありますよ」と恩田は気軽に答えた。サッカーについては素人だが、自分も岐阜は愛すべき故郷としていつも頭の中にあった。そのときはこの短い会話だけで終わった。

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