松木安太郎と福田正博が語り合う「日本の育成法に疑問あり」 (2ページ目)

  • 津金一郎●構成 text by Tsugane Ichiro

■欧州や南米の育成法は日本人にあっているのか?

福田
 育成は、その国の"お国柄"が大きく影響しますよね。そのため、日本サッカーをさらに発展させるために、「日本人らしいサッカーを」とよく言われていますけど、これについては、最近疑問に感じることがあるんです。

松木 日本人ならではの特長を生かした独自のサッカースタイルを確立しようという流れだね。

福田
 たしかに、日本人の特性であるアジリティー(俊敏性)や、ディシプリン(規律)を生かすのは当然だと思います。それを生かすためにヨーロッパや南米から指導者を招いていますが(※JFAはこれまでフランス、スペインのサッカー協会と提携し指導者を招聘してきた)、彼らのサッカー観や育成の手法は、結局は南米やヨーロッパの選手の特長を生かすためのものですよね。果たして、それで日本人らしさを本当に生かせるのか、と疑問に思うんです。たとえば、ヨーロッパの選手は体格的に日本人より優れているし、南米の選手はテクニックや独創性がある。でも、その部分は日本人にとって超えるのが一番高いハードルなのかなと。

photo by Yamamoto Raitaphoto by Yamamoto Raita松木 海外から日本に来る指導者にとって当たり前のことが、日本では当たり前じゃないという問題があるね。僕自身は「相手と駆け引きをする能力」と解釈している南米の「マリーシア」は、彼らにとって当たり前のことだけど、日本社会ではズル賢いことは悪いという認識があるから、教えようとしてもなかなか根付かない。

福田
 その「マリーシア」など、日本サッカーに「ない」部分を補うほかのアイデアが重要になるはずなのに、そこの問題について飛ばしたまま、「日本らしいサッカー」を模索している気がしています。

松木 大前提のところを解決しないで、ゴールにたどり着こうなんて虫のいい話だからね。

福田 日本では、普段の生活で協調性や調和が重要視されていて、誰かと駆け引きすることや、自分の意見をはっきり主張することは、欧米に比べるとあまり求められない。日常で排除されているそうした部分を、サッカーをするときにだけ要求するのは難しいと思うんです。それに対して、日本人選手が指示をきっちり守る「規律正しさ」を持っているのは、社会生活のなかで自然と育まれるものという側面がある。そう考えると、日本社会の特性を見つめ直し、ないものねだりにならず、あるものを最大限に生かしたスタイルを模索するのが現実的と考えるようになってきたんです。

松木 僕がヴェルディ川崎(当時/現・東京ヴェルディ)の監督をしていた頃(93年、94年)は、ラモス(瑠偉)がいて、カズ(三浦知良)がいて、外国人選手にブラジル人がいて、南米的な考え方がチームの主流だったから、他の日本人選手たちも彼らにどんどん感化されていった。だから、南米流の自由な発想でのプレーが生まれたけど、それは特別な環境で、一般的ではないかもしれないね。

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