磐田のJ2降格は「サッカー王国・静岡」の凋落が原因!? (3ページ目)

  • 望月文夫●文 text by Mochizuki Fumio
  • 藤田真郷●撮影 photo by Fujita Masato

 そもそも静岡のサッカーは、古くは県の中央に位置する藤枝市で盛んに行なわれていた。そこから、静岡市、清水市(現静岡市清水区)へと広がり、1970年代後半あたりには、清水のサッカーが頂点に立ち、市内の高校が台頭。1982年に清水東が高校選手権を制すと、清水商と東海大一(現東海大翔洋)も全国制覇を繰り返した。

 その土台を築いたのが「静岡サッカーの父」と言われた、故堀田哲爾氏だった。堀田氏は、地元小学校の先生たちをコーチとして育成し、市内の多くの子どもたちがその指導のもとでサッカーができる環境を作った。前出の清水東の「三羽ガラス」も、そうした環境の中で育ってきた。そのひとり、大榎氏が当時を振り返る。

「清水の高校が強くなったのは、小学生からの強化・育成がすべて。その世代から、いい意味で勝利至上主義が浸透し、全国大会でも優勝しか求められなかった。結果的に自分も小学生のときに全国優勝を経験し、そのベースがあったからこそ、高校世代でも(全国で)勝てたんだと思う」

 清水市(当時)の高校の台頭で、藤枝市や静岡市も対抗心も燃やし、藤枝東、静岡学園などが一緒に切磋琢磨した。そしていつしか“サッカー王国・静岡”が形成され、「静岡を制するモノが全国を制す」と言われるようになった。清水商時代に選手権で全国優勝を果たした磐田のGK川口能活は、そんな“王国”ゆえのプレッシャーの中で戦ってきたひとりだ。

「“静岡代表”の看板を背負った以上は、全国大会で優勝して当たり前という雰囲気があった。だから、準優勝でも許されない。全国から目標とされる重圧の中でも勝てたのは、そういう“勝者のメンタリティー”を持ち合わせていたからだと思います。ただ、自分たちは選手権では優勝したけど、その年の総体ではベスト4で負けた。恥ずかしくてすぐには静岡に帰れず、現地で数日間練習したあとに、明るい時間を避けて夜に戻った記憶がある(笑)。そんな周囲の厳しい目にも育てられた」

 全国大会に出場することは叶わなかったが、横浜マリノスや名古屋グランパスで活躍した鈴木正治氏(解説者)も、1986年~1988年にかけて静岡学園に所属して激戦区・静岡の戦いを体感してきた。当時の熾烈さを思い出して、こう語った。

「上の代には東海大一の澤登正朗さん(解説者。元エスパルス)がいて、同世代には清水商の三浦文丈(アルビレックス新潟コーチ。元横浜マリノス、FC東京など)、下の代には清水商の藤田俊哉(解説者。元ジュビロ、グランパスなど)がいた。ライバル校には常に全国的なスターがいて、その壁は本当に厚かった。静岡学園も他県で強豪と言われるチームには負けたことがなかったから、全国大会には静岡代表が3校くらい出てもいいんじゃないかなって思っていた。とにかく、それだけ激しいところで戦ってきたから、静岡の高校の選手はみんな、本当にメンタルが強かった。高校の3年間でいろいろなことを培って、それを乗り越えてきているから、プロでも活躍できたんだと思う」

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