山口素弘が語る「横浜フリューゲルスの思い出」 (2ページ目)

  • 松本直也●撮影 photo by Matsumoto Naoya

 1ステージ制の96年は前半を首位で折り返し、通年では3位。97年の1stステージは開幕から6試合連続無失点を含む8連勝で、最終戦まで鹿島と優勝を争って2位だった。フリューゲルスはもう、いつ優勝してもおかしくないチームに成長していると感じていた。

 98年、僕は日本代表としてフランスW杯に出場。そして、大会が終わった後の目標はただひとつ。フリューゲルスをJリーグで優勝させることだけだった。それだけの力をチームは持っていると考えていた。

■忘れもしない、10月28日夜の電話

 そんなとき、忘れもしない10月28日の夜、アツ(三浦淳宏)から電話が入った。

「モトさん、マリノスと合併するって本当ですか?」「えっ、そんな話、知らないよ。今、初めて聞いた」

 まさか、そんなことがあるとは思わなかった。そして29日の朝、新聞を見て驚いた。一面に「合併」の記事が出ていた。いつもより早く家を出てクラブハウスに向かい、途中でコンビニに寄ってスポーツ新聞を全部買いあさり、すべてに目を通したのをよく覚えている。

『横浜フリューゲルス、横浜マリノスに吸収合併』

 どの新聞も同じだった。クラブハウスの駐車場には、新聞や雑誌の記者はもちろんのこと、テレビ局のレポーターが待ち受け、テレビカメラがズラッと並んでいる。急いでクラブハウスに行くと、いつものように挨拶する選手はいないし、みんなの顔が引きつっていた。

 そこから、2カ月間の戦いが始まった。

 寝ても覚めても、毎日が苦しかった。寝て起きたら状況が変わっているんじゃないか。合併を撤回しているんじゃないか。新しいスポンサーが現れるんじゃないか。そんなことを願う毎日。新聞を開けば「白紙撤回」という文字があるんじゃないかと、隅々まで探したこともあった。同時に、期待してはダメだとも思った。その連続。

 クラブのフロントとの話し合い、全日空との話し合い。その合間に練習。練習はいつもより時間が短くなって、身が入らなかった。大勢のメディアが見ている中、選手は声が出ない。とても練習をする雰囲気じゃなかった。

 チームメイト同士で削り合いに近い練習になって、言い合いになることもあった。このままじゃ誰かがケガをすると思い、僕がそれを止めに入る。そんな状況が続いていた。実際、ケガをした選手もいた。

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