福田正博が語る「浦和レッズと日本サッカーの20年」

  • 菅原有希子●撮影 photo by Yukiko Sugawara

 また、スキルだけではなく、彼らからプロフェッショナルとしての姿勢についても学ぶことができた。代表的なクラブは鹿島アントラーズだろう。ジーコの勝負にこだわる姿勢が、いまでもクラブの伝統や哲学として脈々と受け継がれている。

 そして、Jリーグ誕生で海外から来た選手や指導者が、日本人選手の優れた部分を見つけ出し、どういう方向に努力したらいいのかを教えてくれた。そうした努力を20年間積み重ねる中で、Jリーグが誕生する少し前に生まれた香川真司らの世代が、世界の第一線で活躍するようになった。さらに、現在の香川らを目指して今の子どもたちがサッカーを始める。日本サッカーは好循環の中にあると思う。

 現役時代を振り返ると悔いはふたつある。ひとつはクラブで優勝できなかったこと。日本代表としては何度もタイトルを獲得することができたが、浦和では一度も叶わなかった。ストライカーとして、常にチームが勝つためにゴールを狙っていたので、浦和を優勝に導けなかったのはとても残念だった。

 もうひとつは、99年シーズンでJ2落ちしたこと。前年に、原博実さん(現JFA技術委員長)が監督になって、セカンドステージで3位になり、「来年は優勝だ」と期するものがあった。ところが、99年のファーストステージはケガ人が続出して思うようなサッカーができずに13位。セカンドステージからはア・デモス監督が指揮を執ったが、開幕から4連敗して低迷......。最終戦に関して言えば、結果は変らなかったかもしれないけれど、「自分がもっと長い時間プレイできていたら......」という悔いが残った。

 あのシーズン、最終節までに12点を決め、チームで最もゴールを決めていたし、終盤の5試合で3ゴールとコンディションも良かった。それでも、最終戦でア・デモス監督が私に与えてくれた出場時間はわずか9分。交代枠の3枚目のカードとして投入された。結局、私がVゴールを決めて試合には勝利したが、勝ち点1が届かずに降格。一度歯車が狂うと簡単に勝てないという、サッカーの怖さを知ったシーズンでもあった。

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る