福田正博が語る「浦和レッズと日本サッカーの20年」 (2ページ目)

  • 菅原有希子●撮影 photo by Yukiko Sugawara

 日本中のサッカー熱が驚くほど勢いづき、スタジアムにはいつも満員のサポーターが詰めかけてくれて非常に刺激的だった。大観衆に注目される中でプレイできる嬉しさと喜びで、モチベーションも自然と高まった。

 ただ、浦和レッズは最初の2シーズンは結果が残せず、私自身はいつも苛立っていた。日本代表ではオフト監督のもとでうまくやれていただけに、チームに戻ると結果が出ないギャップに苦しんでいた。

 それが、3シーズン目の95年に浦和の指揮官がオジェック監督に交代したことで変わった。オジェック監督は混乱していたチームを立て直すために、選手個々の役割を明確にしていき、私は「まず点を取る。そのうえで、キャプテンとしての仕事もしてくれ」と言われた。

 もともと高校時代からストライカーだったが、オフトジャパンでは右サイドでチャンスメイカーの役割をするようになっていたこともあり、浦和ではFWとしてゴールを狙い、同時にチャンスメイクもするという少し中途半端な役割になっていた。それを、オジェック監督が整理してくれた。その結果、チーム全体が洗練され、オジェック体制1年目の1995年は年間4位。私もJリーグ初の日本人得点王になることができた。

■来日した外国人選手、指導者がもたらした好影響

 Jリーグ創設当初は、ジーコ(元ブラジル代表)、リネカー(元イングランド代表)、リトバルスキー(元ドイツ代表)、ウーベ・バイン(元ドイツ代表)など、世界的に名だたるプレイヤーや指導者が数多く来日した。これが後に日本サッカーを飛躍的に成長させる要因になったことは間違いない。

 それまでは、世界トップレベルのサッカーを見聞きする機会さえ限られていたが、世界で活躍してきた選手や監督と一緒にサッカーをすることで、「世界のトップレベルがどういうものか」を肌で感じることができた。同時に、一流選手と一緒に練習やプレイをすることで、「彼らも同じ人間なんだ」ということを知ったし、「自分たちも世界に通用する」という自信が持てた。

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